朔夜のうさぎは夢を見る

終わりが近い

 確証があったわけではない。ただ、確信があった。どうせ、異なれども同じ“自分”。同じようにこの娘を気に入り、自分が思い描くように戦い方を教えたというのなら、きっと舞のひとつふたつぐらいは教え込んでいるだろうと思った。それに、戦場においてああも見事に自分の呼吸を読んで動きを合わせるのだ。たとえ知らずともそつなくこなせるだろうと評するぐらいには、知盛は娘のことを買っている。
 告げ、腕を引くことにさえ幻を透かし見ている様子には苛立ちを覚えんでもなかったが、それ以上にこれから彼女がどのような動きをみせるかが気にかかっていた。軍場で魅せるのとは違うだろうが、舞台ではどのように自分を魅せてくれるのか。それは、期待よりもなお甘い予感。
「あの、お待ちください。わたしは、扇なぞ――」
「知っている」
 そして、これ以上ないほどの好機だった。帯に吊るしていた袋から取り出したのは、愛用の舞扇が一本と、男物というには小振りでしとやかなもう一本。歩きながら掴んでいた方の手に握らせてやれば、はっと見開かれた夜闇色の視線が知盛の背に深々と突き刺さる。
「それで、舞えるだろう?」
「……拝借しても?」
「お前のものだ」
 何の由縁があり、どこでどのように手に入れたかはそもそも知らない。どうせ、興味がなかったから知ろうともしなかったうちのひとつだろう。それでも、邸にてそれを見つけたとき、彼女に添えて舞わせたいと思った。それ以来、実はひそかに持ち歩いていたのだが、かくな機会に巡り合えるとは。
 視界の隅で、娘の細い指先に力が篭められるのがわかった。扇をぐっと握りこみ、震える声が「ありがとうございます」と織り上げる。その震えは常と違って幻を透かせばこそのものではなく、純粋に何がしかの感慨に呑まれたからこそ。そう、そうだ、そうやってそのままこちらに来い。胸中で呟いて、けれどその願いが叶えられることはないのだろうなと、知盛はゆっくり瞬いてすべてを胸の底に沈める。ただ、細い手首を捉える指先に、ほんのわずかに力を篭めて。


 舞台に上がる手前で待ち構えていた楽士には、短く演目の名を告げるだけ。それで通じぬほど、熊野の社は無粋ではあるまい。
 案の定、心得たように楽士達はそれぞれの楽器を構えて舞台上の演者の支度が整うのを待っている。そして、知盛が位置を定めて足を止める背後に付き従っていた娘が、背中を合わせて位置を定める。
 言葉はいらず、何の確認も必要はなかった。ちらと視線を流した知盛に応えて楽の音が響きはじめれば、当然のようにぴたりと呼吸を合わせて扇が開かれていく。濃紫に金粉の散った豪奢な一本と、艶やかな緋色に銀粉の舞う鮮やかな一本。肌と髪とで黒白を纏う娘には、きっと目が覚めるほどの差し色こそが似合うと思った。そう、たとえば返り血を連想させるような、あまりにも鮮やかな色こそが。
 見立てが確かであったことに満足して舞へと意識を引き戻す寸前、しかし知盛は娘の視線が己の手の内にある扇に注がれ、哀しげに翳ったことを見て取っていた。けれど楽の音は止まらない。一瞬だけ視線を伏せ、小さく息を逃すことで悲哀を断ち切った娘もまた、そのまま舞うことへと意識を沈めていく。
 動きが重なり、呼吸が重なり、相手の動きのすべてが手に取るようにわかる。その感触を、知盛は良く知っている。これは、軍場にて娘と背を合わせてあの狂乱に身を躍らせているときと根源を同じくするもの。命が懸かっていればこその張り詰めた緊迫感によって高められるものではなかったが、寄せては返す波のように、互いの呼吸を穏やかに合わせている心地は決して嫌なものでもない。
 その瞬間は、娘が知盛自身に意識を向けている、数えるほどの希少な時間だった。これまでは戦乱の中でと、後は臥せっている折にほんのわずかに垣間見ただけの、彼女が現に確かに存在しているのだと実感する時間。手が届くのではないかと、錯覚する瞬間。


 ゆえにこそ切り捨てられないのだ。だって彼女はここにいて、こんなにもぴたりとすべてが重なり合う。そんな存在には、今生においてただ一人巡り会えれば僥倖であると、知っている。
 ほぉ、と。娘の唇から満悦の吐息が零れ落ちる。それを聞いて、知盛もまた熱い吐息を細く吐き出す。花に鳥、風に月。酒にも戦にも、酔う時には酔うし、酔えぬ時には酔えぬ。けれど、今のこの酩酊にはいずれも敵うまい。美酒に酔うよりなお蠱惑的に、狂乱に酔うよりもなお甘やかに。深く深く酔いながら、自ら望んで溺れていく。
 感じる娘の静謐で凛然とした気配は、美しき海のようであり、妙なる霊泉のようであり。
 何もかもすべて、始まりがあれば終わりがある。終わらぬものは醜く腐ってゆくばかり。人も、家も、世の中も。
 そう思い至ればこそ、知盛は平家の衰退を静かに受け入れていた。還内府の訴えることも理解できる。だが、これが世の流れであり世界の在り方なのだろうと思った。だから、いずれの形にしても平家は終わりを受け入れねばならず、ならば自分こそがその終わりの顕現にふさわしかろうと思い定めていた。
 平家は嫡流、平清盛が正妻の子息。世に広く名を知られた、本来ならば還内府の座す場になくてはならなかった一門の男子。生き残った宗家直系男子の中では、己こそが長子にあたる。たとえ他の誰がどのような末路を辿ろうとも、知盛だけは“平家”という名を世に知らしめる最期をこそ負い、知らしめねばならない。


 終わりが近い。もう残されている時間は多くもない。かつては幾度となく一門の者達と参詣に訪れたこの地にも、二度と足を踏み入れることはないだろう。時流然り、そして還内府が求めるように平家の終焉の形が崩されたとしても、自分は身のうちに病魔を飼っている。
 楽の音がやむ。何もかもすべてに終わりがあることを知っていて、その終わりにこそ自分は向かうのだとわかっていて、それでもなおと終わりが遠いことを求めた稀有なる時間が、終わりを告げる。余韻を味わってから扇を閉じて袖を下ろす、その動作さえも二人はぴたりと重なっていて。
 うるさいほどの蝉時雨をも凌駕する嵐のような賞賛の声と拍手に応えて軽やかに腰を折り、踵を返せばつかず離れず付き従う気配。現から醒めてもうじき夢との狭間に立ち返ってしまうのだろう娘がいまだ自分の手の届くところにいる、幻の残滓のような、陽炎のような、儚い道行き。
「お前と舞うのは、心地良い。……酔いに、満ちる」
 きっと二度と訪れることのないだろう時間の終焉を純粋に惜しみ、遺した手向けの言葉に、どうやらまだ知盛と同じ次元にとどまっていたらしい娘の気配があっという間に遠ざかっていった。それを察し、その別離を哀しいと思う気持ちが、いつからか胸の底に凝っているどす黒い欲望の泥沼に沈む。
「……俺を、見ろよ」
 目を円くして待っている年下の義兄と複雑な表情の神子の許までは、あとわずか。蝉時雨と梢のこすれあう音が折り重なった潮騒にも似た響きの向こうで、知盛ではない“知盛”を見透かす、救おうとすれども自ら飛び込んでしまう絶望と狂気に満ちた夢と現の狭間へと去ってしまった娘。その耳に届かないことを知っていて紡ぐ願いにして最後の理性もまた、終わりが近い。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。