朔夜のうさぎは夢を見る

面白くもない真理

 まるで己を旧知の友のように扱う敵軍の戦神子からの要請に応えようと、そう決めたのは自身だった。将臣に告げたこともひとつの理由であるし、その隣で切なげに眉を顰めていた娘がどうやら察したのだろうことも、またひとつの理由であると認めている。
 心が揺らぎ、流れ、けれどそれではいけないと戒めることは精神の崩壊への道行きだ。ならば、流れきる前に切り捨てねばならない。将臣からは、平家一門という存在を切り捨てさせられなかった。だから、弟と幼馴染という存在を切り捨てさせねばならない。
 そうでなければ、彼は狂うだろう。自分や、あの娘のように。


 時間が残されているわけではないことは、なんとなく察している。病魔然り、時流然り。だが、だからといって急ぎすぎては本当に彼女が崩壊してしまうだろうことも察していた。あのいかにも高潔で脆い、矛盾を体現する瞳が崩壊していくさまをまざまざと見やるのもまた、一興。しかし、それは最後の手段だ。だって自分は、彼女を打ち崩したいという欲求よりもなお強く、彼女を手に入れたいという欲求を抱いている。
 将臣の護衛以外は、本宮までろくな仕事もないのだ。せっかくだからと休養をとることに重点を置けばこそ娘を構う頻度が格段に落ちていたというのに、彼女は勝手に崩壊への道を進んでいる。
 神子の手前というよりも将臣の手前、互いの立場など何も知らないふりを貫くという暗黙の要求を受け、役職ではなく名を呼ぶようになった。その声が郷愁と痛みに震えていることに気づかないほど、知盛は娘に対して無関心ではない。
 もはや“ありえない可能性”を否定したいと考えることにも厭いた。ただ、面白くもない真理を直観し、認める。彼女は確かに“知盛”を知っている。自分ではない“知盛”を知り、愛し、懐かしんで焦がれて――悼んでいる。


 こんなにも自分は彼女を見詰めているのに、欲しているのに、彼女は自分を通じて自分ではないその男を見やるばかり。時折り知盛のことを見詰めては、その己に惑い、必死になってその視線を掻き消している。神子もまた自分を通じて自分ではない”平知盛”を見透かしている感があったが、彼女はむしろ、今の知盛にこそ重きを置いているのに。
 諦めろ、と思う。諦めろ。諦めて、捨ててしまえ。お前が焦がれる“知盛”は、この世界のどこを探そうとも存在はすまい。なれば、そうして過去にばかり囚われるのではなく、自分を見ればいい。夢を夢と知って溺れるのは愚の骨頂だ。お前は、それがいかに馬鹿げたことであるかを知っている。知っていればこそ自分を通じて自分ではない男を見やって後、目を醒まして自分を認めては後悔に沈んでいるのだろう。
 だったら、完全に醒めてしまえばいい。自分は決して女にとって良い男ではないだろうが、こうも欲した女に対してまで無情であるつもりはない。お前が俺を見詰めるのなら、俺はお前からその男を消し去るほどに、お前に新しい現と夢とを与える用意があるのに。


 案内しろと言われずとも、面倒ごとはさっさと片付けるに限る。本宮に参れないのなら、那智大社か速玉大社がその滞在先として名乗りを上げていることだろう。もっとも、あの院のことだ。おとなしく宿で精進潔斎に励んでいるよりも、那智の滝なり瀞八丁なりに赴いて熊野の風光明媚な側面をこそ満喫しているだろうが。
 いずれにせよ、院の行方を闇雲に捜すよりは、どこぞで近臣の一人でも捉まえる方が手っ取り早い。まずは宿から手近だった那智に赴いてみれば、予想通りというかなんと言うべきか、知盛の顔を覚えていたらしい舎人が丁寧に頭を下げ、あっという間にその行方が知れる。
「なんつーか、反則だよな」
「だよね。ここまで違いを見せつけられると」
「いいじゃぁないか。面倒は、少ないに限る」
 那智大社から瀞八丁に向かって移動しながら、息のあった不満をこぼす二人に、知盛は人を喰ったような笑みを浮かべるばかり。唇の端をくいと吊り上げた、いっそ極悪な笑みを。なんとでも言えばいい。気にはならないし、気にするつもりは微塵もない。どうしてこれしきのことにここまで時間をかけ続けたかがむしろ理解できないくらいだった。
 もっとも、その絡操りはすぐに知れる。


「あ! なんか人が集まってる!」
「って、おい、望美! 団体行動を乱すような真似は――」
「いいじゃん。ちょっと寄っていこうよ」
「あー、……ったく。悪ぃ。ああなっちまうと、あいつ、人の言うこと聞かねぇんだ」
「よろしいのでは? 水も少なくなりましたし、ついでに汲んでまいりましょう」
 あっという間に進行方向から外れた神子を将臣が追いかけ、どうやら将臣を甘やかすつもりらしい娘が許容する。そうなると、知盛もまた必然的に巻き込まれる形になる。
「……とももりどの、も。よろしいですか?」
 どこかたどたどしく名を呼ぶのを微笑ましげに将臣が見詰めているが、ただ呼びなれていないという単純な理由で彼女が口篭っていないことはとうに察しがついている。問い詰めてやってもいいが、それもまた娘を追い詰め、崩壊へと追い立てる一助になるだろう。
「神子殿がおらねば、意味があるまい」
 ゆるりと応じて進路を変更し、先を行く細い背中にさえ届かないように、溜め息をひとつ。その背に向かっていたずらに指先を伸ばしてみるが、届かない。そして娘も振り向かない。気づいているのかいないのか、そのことまでは、判じられない。
 まるで、蝉時雨の只中に浮かび上がる陽炎を追い求めるように。水面に映った月に、恋焦がれるように。
 自分もまた、娘と同じく夢と現の狭間に溺れて狂いつつあるのだと。わかったところで、抗うだけの理由はどこにもなかったが。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。