破綻の具現
命じる言葉に応じて素直に部屋を立ち去る背中をちらと見流し、知盛は小さく息を吐き出した。このところ、体調は小康状態を保って落ち着いている。ついでだから熊野の清浄で霊験あらたかな空気に病を祓ってもらえと、そんな見送りの言葉を受けたことは忘れるつもりである。
「……ちょっと、聞きたいことがあるんだけどよ」
「何か?」
ちょうど話にも区切りがつき、一日分の疲労を閉ざした瞼の裏に追いやっていたところに、ふとかけられたのはごく真剣な様子で張り詰めた年下の”義兄”の声。ゆるりと瞼を持ち上げれば、悲しげな、切なげな、今にも泣き出してしまいそうな紺碧の視線にぶつかる。
「お前、胡蝶さんのこと、どうしたいんだ?」
「どうしたい、とは?」
「だから、この先だよ。こうやって俺の護衛にまで巻き込んで、本気であの人をずっと戦場に置いとくつもりか?」
「なればお前は、いまさらアレをただ邸の奥に囲うことが適うと、本気でそう思っているのか?」
「そういうことじゃねぇよ! そうじゃなくて、だって、お前――」
切り返した言葉に反射的に身を乗り出し、けれど将臣は躊躇うように口を噤むとその場にずるりと崩れ落ちる。力なく下ろされた両腕は膝の上に。耐え切れず落とされた視線は、ひたすらに揺らいで。
損な性分だと、そう思う。この男は、本当に損な性格をしている。もう少し愚鈍であれたなら、もっと楽な道を行けただろう。もう少し視野が狭ければ、こんな可能性には気づかずにすんだだろう。本当に、彼ほど才能がすなわち幸福を齎すわけではないのだと雄弁に語る存在は珍しい。迷い込んだ場所が悪かったのか、それが彼の天命なのか。知盛にはそれを知る術はなかったが、少なくとも彼の不運を悼むだけの眼識はあった。
追えども、囲えども、焦がれども。あの娘は一向に知盛の手の内へと堕ちてこない。ただひたすらに、狂気と絶望で織られた蜘蛛の巣に囚われている、哀れな胡蝶。せっかくその糸を断ち切ってやっているのに、自ら囚われにいくのだから救いようがない。そんな胡蝶を捕らえようと、終わりのない蜘蛛の巣掃除に勤しむ自分もまた、よほど滑稽で救いようがないのだろうが。
「お前、だってただあの人の剣に興味があるってだけじゃねぇんだろ?」
「さて……俺は一度とて、かようなことを言ったつもりはないが?」
かの娘を還内府の恋人候補から引き摺り下ろして自分の手の内に納めるに際し、知盛は「自軍にこそあの“刃”はふさわしい」と言った。それは紛れもない事実として受け止められた。同時に、かほどの実力と狂気とを惜しげなく見せ付けた娘を還内府の身近に置くことを危ぶんだ者達の後押しを受け、彼女の身柄の引渡しは実に手早く行われた。そこに、当事者達の心情などかんがみられる余地は一切なかった。
一門の者ならば、誰もが知っている。“平知盛”は、根本的な部分で他人に興味がないのだと。女の許に通うにしても、それは劣情の捌け口にして気まぐれに過ぎない。その瞳に本気が宿るのは、軍場の只中のみ。刃を振るい、刃を翳され、命の遣り取りがある所においてのみ生きることのできる、破綻した命の在り方。
だからこそ、誰もが知っている。知盛は、娘のみせた狂気と太刀筋に惹かれればこそその身柄を引き受けたのだと。知盛にとって、それだけが知られていればそれで良かったというのに、将臣はそういった一般的な視点とはずれた角度で物事を俯瞰するのだ。今もまた、のらりくらりとはぐらかした言葉だけでは満足せずに、眉根を引き絞って食い下がってくる。
「……胡蝶さんのこと、好きなんだろ?」
震える声は、今にも崩れてしまいそうだった。はたりと、無言で瞬きをひとつ返しただけだというのに、将臣はそのまま堰を切ったように言葉を積み重ねる。
「ちょっと前までは、確かに違った。興味とか関心とか、それだけだった。お前はまるで珍しいペットでも見つけた感じで胡蝶さんのこと見てたし、いろいろ知っても黙っててくれるから傍に置いとくのにちょうどいいって、そういう感じだった」
「……」
「けど、今のお前はそういう目じゃない。……俺が見てて気づくぐらいだ。お前にだって、自覚はあるんだろ?」
なぜ、お前がかくも切なげな瞳をするのか。痛みに耐えるような、絶望に染まるような。崩れてしまいそうな声での慟哭を無感動に聞きながら、知盛はどうしようもない疑問に思考を割いてみる。
「どうしてお前は、好きになった相手と死に別れる可能性が高い道ばっか、選ぼうとするんだよ……ッ!!」
悲鳴じみた叫びは、聞く者の心を抉るような悲嘆と懇願に染まっている。そして、知盛の心は動かない。
こればかりは結局どうしようもなかったなと、心の奥底で呟いた感想は告げないでおくことにした。告げれば将臣は間違いなく傷つくだろうし、傷つかせることに意味があるとは思わなかった。思い知ったところで、どうせ覆せはするまい。それこそどうしようもない。こればかりはきっと、生まれ育った世界の違いによる、絶対不可侵の根本的な差異なのだ。
「言っただろう、“還内府殿”」
ごくごく静かに声を紡ぎ、知盛はかつて嘯いた言葉を繰り返す。
「アレは、己の価値を知っている。己がいずこに、いかに在ればその力を引き出せるのかを知り、そう在ることを拒まぬ――戦乱の愛し子」
その在り方は、己と同じ。この世界で安穏と生きることのできない、破綻の具現。
「けどッ!」
「俺は、アレの在り方を歪めることをこそ、最も厭う」
差し挟まれた反駁の言葉を遮り、宣するのは将臣の言った情動よりもなお深い、それこそ知盛の根底にある価値観。
「今しがた申されたことの真偽は、お好きに捉えられるがよろしかろうよ」
俺も、アレも。あの阿鼻叫喚の中でしか、真理を見出すことができない。ただ、それだけのことだ。
告げると同時に瞼を引き下ろし、知盛はこれ以上問答を重ねる意思は微塵もないことを示す。いまだ何か言いたそうな気配を滲ませていた将臣も、会話を再開できる見込みがないことを悟ったのか、それ以上は何も言わなかった。
そう、それだけのこと。だってどうしようもない。あの娘が知盛自身をそのまなこに映す唯一の瞬間は、互いの命が瀬戸際に追い詰められている、あの狂気に満ちたこの世の地獄でしかない。知盛が求めるものはだって、あの場所にしかないのだから。
Fin.