哀れな獲物
なぜ彼女は、こうも己の琴線に触れるのだろうか。それは、あるいは抱いても詮無いものと切り捨てるべき疑問であったのかもしれない。だが、知盛は思い至ってしまい、切り捨てるつもりになれなかった。
日ごろの生活の内にてというのなら、また話は別だっただろう。香の趣味、歌の趣味、言葉の選び方に振る舞いのひとつひとつ。そういった何気ない部分で自分の琴線に触れるものが、これまで一人もいなかったということはない。それなりに好ましく思わなければ、たとえ本気になれなんだとしても、通うような面倒を選ぶ理由がない。しかし、彼女は違う。
彼女が知盛の琴線に触れるのは、戦場での在り方。太刀筋然り、心意気然り、立ち居振る舞い然り。家長とは生まれてこの方の付き合いになるが、それでもここまで手近な場所で戦わせようと思ったことはない。必要があらば互いに無難に振る舞えるだろうという確信はあったが、ここまで見事に己の在り方に沿った動きを見せるとは思えず、それは無理からぬこと。
彼は、彼自身で戦うことをこそ前提にして身を鍛えている。それに対し彼女の動きはまるで、最初から“知盛の背で戦う”ために鍛えられたかのようだったのだ。
思い至ってまず湧いたのは不快感。ついで揺らめいたのは苛立ちだった。
確かに彼女を背に置いて戦うのは愉しかった。呼吸が手に取るようにわかり、番い舞を舞うかのようにして刃を返す感触は心地よかった。だが、それは己の手によって齎されたものではなく、誰か見知らぬ存在によって用立てられたものなのだ。
「月天将と、そう、お前を呼んだのは誰だ?」
身柄を引き受けた還内府にも明かしていないというその存在を、娘がここで正直に白状するとは思わない。それでも、問い質そうという衝動を殺す気にはなれなかった。
「……わたしの、ただひとつの刃だった御方です」
そして予想外なことに、娘ははぐらかそうとはせず、恐らく彼女にとって明かせる限界なのだろう言葉を紡ぐ。苦味と痛みに歪む視線が、今にも泣き出しそうな光を弾く。しかし、知盛はそんな答えを聞きたいのではない。
「御身は、誰ぞ一門の者に所縁がある……そう、申されていたらしいな?」
その刃とは、いったい何者か。少なくとも己を深く知っている存在だろうことは明白。なのに、そうして絞り込んだ候補は裏を返せば知盛にとってもよく知る相手であり、こんな奇妙な娘と関わっていなかったこともまた明白なのだ。
「俺は、お前を知らん。だが、お前は……俺を、知っている。しかも、過ぎるほどに」
なればいったい何者か。螺旋を描いては原点に返ってくる思索は、頭の片隅で明滅している可能性を何とかして切り捨てたいという欲求の裏返し。考えるまでもない。だって、ここまで精確に知盛の存在を誰かしらに教え込めるのは、知盛自身に他ならない。
ありえないと思う。だが、ありえたのだろうと思うのは、その胸の奥底に沈めた真理を暴かれまいと無言で抗い続ける娘ゆえに。見知らぬ“自分”のために自分に対して必死な頑なさをみせる娘に、苛立ちがさらに増していく。
暴かれたくないというなら、完全に隠しおおせばいい。中途半端に滲ませるから気にかかる。それを知らぬほど愚かでもあるまいにと、思って知るのは隠し切れないほどの娘の内の思いの深さ。自分のことをあれほど深く理解して振る舞うのに、自分のことを決して見ない。では、そのはざかいにあるのはいったいどのような存在なのか。
「悼み、懐かしむことで恋う目でなぞ見るな」
そして知盛は認めない。そんな存在は認めない。お前はここにいる。なれば見るべきものはここにはないものではなく、ここにあるもの。
「――俺は、ここにいる」
だからまっすぐに自分を見ればいい。拒絶など許すつもりもなく、それこそまっすぐに見据えながら言い放った言葉に、娘は今度こそあからさまに知盛を通して知盛ではない存在を見やり、柳眉を顰めて息を呑む。
徐々に、徐々に、彼女から引き出される言葉がその真情に近づいていることはわかっていた。けれど、どうしてもその距離は遠かった。知盛が求める位置までは決して歩み寄ろうとせず、知盛自身を見つめようともしない、なんとも残酷な娘。普段ならば意識の外へと切り捨てるなり興味を失うなりするのだが、いかんせん彼女は過ぎるほどに興味深く、その在り方があまりにも心地よかった。手放す気にはなれず、むしろ手に入れたいとの衝動が湧き起こるのを感じている。
頬を捕らえていた指を外せば、とたんにふらつく細い体躯。戦場の狂気に呑まれて暴走したがためだろう過度の疲労は、とっくに察していた。ゆえに見向きもせず肩に抱き上げ、誰にも覆させないと決めた計画の第一歩目へと問答無用で踏み出す。
「告げる気がないなら、呑んでいればいい」
今はまだ届かない。だが、遠からずこの手の内に引き込んでみせよう。かくも稀有な存在を手に入れないまま我慢する理由など、知盛には微塵も存在しない。
どうするつもりかと問うから、お前はどう思うかと問い返す。すると、正確に知盛の計画の方向性を言い当てる。その言動にはじまり、彼女がこうして自分に見せるすべてが彼女自身を知盛に絡めとらせる原因なのだと、気づいているのかいないのか。
「いずれ、知る」
すべての事実はいずれ知盛の眼前にその全容を曝すだろう。暴くと決めたのだから、暴き切ってみせる。意思を未来への予言として告げてやれば、恐れるように、惑うように、娘がその細い指で縋りついてくる感触を知る。
「……もう、これ以上、」
指から力が抜け落ちる寸前、微かに届いたのは小刻みに震える嘆き。それさえもきっと自分を通じて見やっている幻想ゆえのものなのだろうと思い至り、知盛は黙って、まずは一時、このあまりに哀れな獲物に現の安寧を齎すことにしようと決めた。
Fin.