もう会えない面影
知盛は、最期に彼女の名を呼んでいたのだという。それを将臣に教えてくれたのは、南に落ちた一門の者達の行方を密かに探ろうと約束してくれた、天の朱雀だった。
ここに辿り着く前、逃亡の途上における望美は実にわかりやすく落ち込んでいた。将臣に比べれば少ないだろうとはいえ、敵軍にも轟くほどの噂になり、源氏の兵の士気をその存在ひとつで鼓舞することが適うだけの地位を確立していたのだ。それなり以上に、戦場の狂乱と地獄とを見ているだろうに。
複雑な思いがなかったと言えば嘘になる。源氏には辛酸を舐めさせられた。大切な者達が次々に薙ぎ払われ、刈り取られていった。けれど、それは相手から見た自分も同じだろうと考えていた。
一方的な恨みと憎しみに溺れることだけは、許せない。それはだって、あの男が何よりも嫌った姿だ。そんな無様な姿は、見せられるはずもない。
自分は守られていたのだ。そのことは知っていたし、わかっていた。けれど、こうして振り返って改めて気づく点も多くて、将臣は切なくなる。
あの男は、きっとすべてを見透かしていて、その上で守ってくれていた。物理的な意味だけではなく、この心が壊れないように、だ。そうやって守ってくれるだけの力のあるあの男が救おうとして救えなかったのだから、きっと彼女のことを救うことは不可能だったのだろう。今になって理屈が追いついたあの夜の傍観の理由には、苦く表情を歪めるだけだが。
殺されるはずだった自分がこうして生き延びているのは、あまりにも間が良かったからだ。
あの瞬間に九郎が御座船に来なければ。新中納言入水の報せが頼朝の耳に入っていなければ。九郎に同行していたヒノエが水軍の者でなければ。熊野を動かす思いに至らなければ。
ありとあらゆる“もしも”が存在し、どれかひとつでもあの瞬間と食い違っていれば、間違いなく将臣もまた海の底にあるという平家の夢の都に旅立っていたはずだ。それも悪くはなかったかもしれないと、うっかり暗い考えに耽るほどには、喪われたすべての存在があまりにも愛しかった。
いくら熊野別当の手によって警戒を敷かれているとはいえ、お尋ねものの自分達が大手を振って外を歩けるわけがない。この先の平泉への道程に向けて準備に奔走するのは主に天地の朱雀。残る面々は、本宮の奥に設けられた一般人の立ち入ることのできない区画にて、傷を癒すことに専念している。
思えばあの乱戦の中でよくぞと思えるほど軽傷だった将臣は、だからこうしてぶらぶらと森の中をうろついてみたり、木立を抜けて山頂から海を見下ろしたりしている。冬が本格化する一歩手前の山々は、葉が赤や黄に染まって美しい。夏とはまた違う風情があるなと思い、今はもう会えない面影を思う。
あの夏に見た望美ほどではないが、将臣とて別に、平家において過ごした三年もの間、芸事に無縁だったわけではない。あれはそう、まだ清盛が生きていた頃のことだ。酒の席で、不意に寂しそうに笑いながら、乞われた。
重盛には年の近い兄弟がおらなんだからな。“兄弟”で舞う姿というものを、どうじゃ、吾に見せてはくれんか、将臣。
同席していた重衡が優しく微笑み、無表情だった知盛は「……僭越ながら指南いたしますので、しばしのご猶予を」と言っていたずら気に小さく笑っていた。言葉に含まされた意味を嗅ぎとれなかった将臣をよそに、どうやらあの男のスパルタぶりを知っていたらしい清盛が、呵呵と笑って「あまり急かんでもよいぞ」と言っていた。
知盛も厳しかったが、重衡と、何よりあの頃はまだ生きていて、将臣にも好意的だった惟盛がより厳しかった。時間を見つけては細々と指導を施され、練習に付き合おうと言っては経正や敦盛が楽器を携えて将臣の許を訪れた。
知盛以上の戦闘馬鹿かと思っていた教経が意外に舞の名手であることに打ちひしがれ、惟盛の弟達はさすがに素晴らしい雅楽衆。手本として見せられた重衡と惟盛の番い舞では、見物の女房達の黄色い悲鳴の意味をしみじみ実感してしまった。
そうして何とかかんとかモノにしたのは青海波。ようやく見せられると予告にいけば、気づけばド派手な宴席が組まれていたのも、今では切ない思い出である。
舞は祈りであり、神への贄なのだそうだ。では、同じヒトならぬ存在に捧ぐものと、そう捉えても構わないだろう。木立の向こうから微かに聞こえる潮騒に耳を澄ませながら、将臣はふいと袖を持ち上げた。
視点は遠くに。動きはなめらかに。雑念を振り払いただひたすらに、己が指先、足先に行きわたる神経を感じ取って、織る。
愛しくて仕方がなかったものが、今は遠い。
あの夏には帰れない。あの日々には帰れない。喪われてしまったものは、もう二度と取り戻せない。彼らをただ仲間だと笑えた時間は取り戻せなくて、守るためならとなりふり構わずにいられた日々は、取り戻せない。
出逢えればいいと思った。出会えるだろうと、信じた。
あれほど切なく愛したのだ。きっと、三千世界のありとあらゆるしがらみを断ち切って、あの男は彼女に辿り着くだろう。そうすればきっと、今度こそ彼女もあの男を素直に愛してくれるだろう。彼女を狂わせたしがらみを断ち切りさえすれば、彼女があの男を愛することを阻む理由など、何もないと感じていたのだ。
潮騒に乗せて、袖を返して波となす。せっかくの席だからと、楽を担当してくれたのは経正や敦盛をはじめとした楽器を得意とする一門の者達。番い舞はさて誰にという話になって、笑って兄を指名したのはよく似た銀色兄弟の弟君。
渋い表情と共に滲みだした不本意だという気配を軽やかにいなし、嘯かれた言葉は誰にも否定されなかった。最後まで、疑うような場面には出会わなかった。だから、それが彼の真実だったと、あらゆるものを喪った今も将臣は変わらず願っている。
泣き方を思い出せない瞳をいびつに歪めて、いつしか中途半端なところで止まってしまった舞を諦めた将臣は、小さく呻く。
捧げて、悼むことさえできない。何をどうするべきなのかが、まるで見えてこない。
捧ぐことで、すべてを託してしまいたかった。すべてを預けて、すべてを懸けて、そうしないと膝から力が抜けてしまいそうだというのに。
守ってくれる相手がいないことは、辛い。ただ無心に頼っていたつもりはなかったけれど、確かに守られていたのだ。そうと知るほどに、今の将臣は本当にボロボロだった。
「――お前に失望されないように、もう一息、頑張るとするよ」
だからどうか、悼むのはもう少し待っていてほしい。今はまだ、悼むことに思いを割くことさえできないほど、どうしようもなく何もかもを喪い過ぎてしまった。確信などできない救いを輪廻の向こうに夢想することで意地を張っていないと、あの男が寄せてくれた思いを裏切ってしまいそうだった。
誰よりも彼を理解していただろうその弟をして「兄上は、将臣殿と共にあることを、すがしく思っておいでですから」と言わしめた己の在り方など、自身では見えようはずもない。ただ、ここで終わるわけにはいかない。だから、将臣はせめてあの男の教えてくれたもうひとつの舞だけは忘れずに、穢さずに、途絶えさせずにいようと思いなおす。その舞を舞いあげることで、この先を切り開こうと思い詰める。
ただ、それをもってひとまずの手向けにさせてくれとは、そして将臣は思えなかった。だって、あの男は最期の瞬間に誰よりも切なく愛した存在の名を呼ぶような優しい人なのだと。今や知るものが己だけかもしれない真実を、己の思いで歪めるような真似も、できるわけがなかった。
Fin.