終焉の喪失
どこか遠いところで響く、誰かの声を聞いていた。何を言われているのかはわからず、ただ、自分がどこかへ堕とされていくことと、何かをせねばならないことだけはわかっていた。
はたと、瞬けばそこには目映いほどの蒼天が広がっている。雲のひとつも見られない、早春の蒼い空。大地はまったき白銀に染まり、ゆえにこそ、そこに集うとりどりの戦装束が眩しい。
ゆらと足を踏み出し、歩む。さくさくと軽い音を立てて雪が沈むが、何ごとかに必死な様子の彼らが気付く様子はない。
さくさく、さくさく。そういえば、暑さも寒さも感じないなと思い、死した身なれば当然かと思った。
最初に目を見開いたのは、あまりに懐かしい“義兄”だった。驚愕は連鎖し、信じられぬモノを視るようにして数多の視線が己を振り返る。まあ、当然の反応だなと考えながら、障害物を避けるようにして地面を覗き込む。
――迎えに来てくれたのですか?
微かに震える唇は、もう音を音として紡ぐことさえできていない。それでもはきと聞き取れた声に、双眼が見開かれる。見覚えのある娘は、見覚えのある衣装を纏っていて。
それではきっと、これは“はじまり”よりもなお前の時間。なぜ、どうして、なにゆえに。そんなとりとめのない言葉が脳裏を駆け巡ったが、因果において、知盛は動かしようのない過程よりも己が手に触れる結果をこそ重んじる。
――次こそ、きっと、共に。
紡がれるのは願い。祈り。希望にして渇仰だ。知っている、知っているとも。お前はずっとそれを願っていた。だからお前は、俺にずっと“俺”を重ねて、苦しんでいた。
なんだかどうしようもなく切なくなって、視線をわずかに伏せて、けれど確かに微笑みを湛えて送ってやる。この場がどこで、何があって、どんな経緯で彼女がこうして地に伏しているかはわからないが、きっと彼女は己のなすべきことをなし、終わろうとしているのだと確信できていた。
その双眸から光が消えるのを見届けて、知盛はゆっくりと唇を動かす。
「このまま、終わらせてやれ」
誰を見るわけでもなく、彼女の抜けがらを見詰めながら、ゆぅるりと。
「それが、世界の理というもの。この娘は、水底の都を、夢にみていた」
「……あなたは、何者なの?」
誰もが当惑と不審の視線を投げかける中、ただ一人、敵意さえ剥き出しにしながら問いただしてきたのは白龍の神子。なるほど、この神子があの神子なのかと、思ったのはその瞳がもはや救いようのない色に染まっていたからだ。
狂おしいほどの後悔と、渇望。自分が、自分さえ、自分なら。それは一時の将臣にも似ていて、憐れなことだと、少しだけ思う。
将臣はあのどうしようもない独りよがりな自己嫌悪から脱却して、自身の無力さを認めていた。認めること、そうやって何かを諦めることもまた、強さだ。そして彼女は、認めず、いまだにその終わりなき螺旋の中でもがき続けているだけで。
「お前が否定した、その先にある……亡霊、だな」
ここでこうして諫めて、それで終えられるなら、この娘も、そしてあの娘も、きっとこれ以上の傷は負わなくてすんだだろうに。
息を呑み、目を見開いた姿を視界から追い出し、次に見やるは喘ぐようにして必死に嗚咽を噛み殺している愛すべき愚かな“義兄”。
「送り、そして祝してやれ……。次こそ、共に、と。そう願い続けた、妙なる絆を」
「お前、迎えに来たんじゃないのか?」
「あいにくと。コレは、“俺”と共に在っても……情に引き裂かれて、狂うだけだからな」
掠れた声で絞り出された問いかけに、そうであればよかったと思いながら、返すのは真理をこそ。小さく息を吐き、自分の見送った娘の最期を、思い出す。
「水神達は、気の回るものばかり。預ければ、過たず送ってくださろう」
呼び立てるまでもなく、姿を現してその懐の内へと受け止めてくれたのは、彼女がきっと愛でられるべき魂だったから。あの冷たく優しく残酷な海の底で、きっと彼女は焦がれ続けた夢に沈んでいる。
「終わらせてしまえ。そうすることが、御身にとってもまた、傷浅きことであろうよ」
「あなたに、何がわかるっていうのよ……ッ!?」
絞り出された聞き覚えのある慟哭にただ憐れみの視線を向け、終わらぬ輪廻とはこのことかと、そう思う。
「なれば、往かれればいい……。その先にて、さらなる後悔に沈むのだとしても、すべては御身の業」
「わかっている」
「では、それに御身以外を巻き込むことの意味にも、早々に気付かれよ」
罪を罪とは知っているのだろうが、罪の規模がわかっていない。問答に何を思っているのか、思うことなど何もないのか。透明な視線で自分を見詰める神を最後に視線で一撫でし、知盛は世界から切り離される自身の存在を自覚する。
「ただ、知れ。……俺は決して、お前も、お前の龍も、許しはしないと」
言い置いた言葉を、あの娘は覚えていただろうか。忘れただろうか。くだらないものと、一蹴しただろうか。驚愕とあからさまな傷とに覆われた双眸が向けられるが、反駁の声は聞こえないまま、知盛は自分が再び、先までの存在があやふやな空間に取り込まれるのを感じている。
そのまま、自身の存在を自覚する感覚と共に溶ける思考の中で、ふと思い至った。もし、覚えた上でなお忘れるほどに時間を重ねた結果だったというのなら、きっとその終焉の喪失こそが、彼女の負った罰なのだろうと。
Fin.