朔夜のうさぎは夢を見る

ひとつの終わり

 指を捉え、細い体を引き寄せ、強く強く抱きしめることで深く深く刃を突き立てる。心臓には突き立てなかったが、肺を貫通して刃が背に抜けたのだろう。ごぼりと、鈍い音を立てて血の塊を唇から溢れさせ、漏れるあえかな呼吸の残滓はひゅうひゅうと響く喘鳴。小烏丸の柄から離した手を、代わりに娘の握っていた小太刀の柄に添えてやる。
「これは、小烏丸といってな。我が一門に伝わる宝刀にして、神剣だ」
 告げること自体に意味を見出したわけではない。ただ、告げることで送ってやろうと思った。手に入らなかった娘。自分を見ようとはしなかった娘。けれど、それは決して彼女だけが悪いのではないと察している。
 自分を見遣るたびに、彼女はその瞳に宿る絶望と狂気と、情愛と恋情の色を深めていった。自分が彼女のゆらゆらと漂う有り様に狂気を深めたように、彼女は自分の存在自体に狂気を深めていた。夢と現の狭間にさまよい、何を夢と、何を現と定めるかに混乱し、そして堕ちていった哀れな胡蝶。彼女を捉えたこの世界の、あるいは彼女が“在るべきだった”世界の残酷さをこそ最も恨みに思うほどには、知盛は娘のことを見詰めていたと自覚している。
「黄泉苞に、くれてやろう」
 ゆえ、迷わず往け。
 血の気が失せ、冷えて力を失う指が刀を取り落とさぬよう支えてやっていたのを、言葉と共に翻す。彼女が軍場にて命を預けていた刃を鞘ごと預かり、代わりに小烏丸の鞘を与えてやる。
「この神剣なれば、お前を平家の夢の都へと、確かに導いてくれようよ」
 それは間違いなく己の心を痛烈に抉る皮肉だったけれど、それこそが自分達の在り方を歪めぬ唯一の選択なのだろうと直観していた。
 彼女の美しさは、自分ではない“自分”によって磨かれたもの。それを察してなお、彼女が自分を見てくれたならと欲し、彼女を手に入れたいと欲した。
 選ぶのは彼女。そして彼女は自分のことも“彼”のことも選ばずに、こうして狂気に沈んでいった。それはすなわち、自分自身が間違いなく彼女に愛されたということ。ならば、最後に自分からの精一杯の誠意と愛とを示すことこそが、彼女の在り方を歪めず、自分の生き様を歪めない正しい道だと信じたのだ。


 選ぶことはできる。往くこともできる。だが、その時に自分の心がどう揺らぐかはまるで予想できずにいた。だから、何もかもを削ぎ落として残されたはずの狂気と絶望に縁取られた思考のさらに奥底から、かくな慈愛と充足感が湧いてくるとは知らなかった。刀を失い、無手になった指が力なく縋りつく感触が、微かながらも強まっていく。血を失い、命数をこぼし、もう力など入ろうはずもないのに。
「ご、め……なさ……」
 ひゅうひゅうと鳴る呼吸音のせいで、声は掠れて途切れてしまっていた。だが、思いを伝えるのは言葉だけではない。合わせた頬は冷たかったが、その夜闇色の双眸から溢れた涙は熱い。とめどなく溢れるその熱と、力なく縋る指先と、消えようとしている拍動と。その存在のすべてから、彼女の惑いと後悔とが伝わってくる。
 大丈夫、大丈夫だから。お前の思いは届いている。正しく愛せなかったと悔いるその思いこそ、お前が俺を愛した証。俺はそれでも良かったんだ。ただ、お前はそれ以上を俺に与えようとしてくれた。それさえ知れれば、俺はお前の愛を疑ったりはしない。
 零れ落ちようとする命を最後まで感じていようと、抱きしめる両腕にさらに力を篭める。腕の中で娘の首が仰のいて天を仰ぎ、そのままわずかに頭を持ち上げて娘を覗き込んだ知盛の双眸に、視線が合わせられる。惑いに歪み、それを振り払い、涙に潤んだ両目をそっと細めて、背筋を這いあがった指先が知盛の髪の合間に差し入れられる。


 引き落とされるまま、伏せられた長い睫毛の震えを見詰めながら知盛は娘と唇を合わせていた。
 血の気の失せて青紫に染まった、哀しいほどに冷たい唇。頭皮に感じる細い指先も、まるで氷のような冷たさ。ああ、もうこの娘は自分とは違う、不可逆の道を往くのだと、いまさらながらに深く思い知る。
 刹那を切り取って永劫に換えることを願っても、時は止まらない。落ちそうになる首を支えて味わっていた唇が、微かに震えて引き剥がされる。その段になって視界を鎖していたことをようやく自覚して、光を求めた先にはきらめきを失い、濁っていく夜闇の輝き。
「あなたと共に……生きて、みたかった」
 なぜか明瞭に言葉が届いたのは、最期の輝きを放つ魂が起こした奇跡か、知盛の願望か。切なげに歪んだ表情が、そのまま完全に意思の光彩を失う。銀糸の髪を梳くようにして細い指が抜け落ち、焦点を失った双眸は、力なく仰のいた首によって天上へと向けられる。
 それは、ひとつの終わりの瞬間だった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。