朔夜のうさぎは夢を見る

崩壊の奈落へと

「手を出すな……これは、“俺”とアレとの、しがらみだ」
「知盛?」
 望まずして声音に滲んでしまった深奥の感情を敏感に嗅ぎ取ったのだろう。不思議そうに、戸惑うように小声で呼びかけられ、知盛はもはやすべてを曝け出して将臣に対峙する。
「見遣らぬことが嫌だと言うなら、せめては手出しをするな」
 ――頼む、有川。
 滅多に紡いだことのない言葉をそう付け加えれば、今度こそ何を読み取ったのか、ぐっと唇を噛んで俯いてしまう。
 きっとこれで、彼はこの場を動かないだろう。信頼よりもなお深い確信を抱いて改めて向き直った先、娘が舞っているのが柳花苑だとはじめて認識する。皮肉なものだと思い、美しいと思った。遠からず己の理性もまた崩壊するのだろうと、そのことを強く直観したあの夏の熊野の、何と懐かしく輝かしく、愛しいことよ。
 波を掻き分けて知盛は進む。濡らすわけにはいかないからと双太刀は腰から引き抜いて舞台に置き去りに、代わりに小烏丸を佩く。娘が舞うのにあわせて迸る清冽な霊気に神剣が共鳴しているのか、柄と鍔とがカタカタと音を立てている。讃えるように、哀れむように。


 きっとそろそろ声が届くだろう距離まで近づいたところで、開きかけた唇を知盛はそっと噤みなおした。名を呼びたいと思い、名を知らないことを思い出したのだ。
 胡蝶と、それは彼女の真の名ではあるまい。その名は、こうして現にありながら完全にここではないどこかへとその意思を沈めてしまった娘を呼びはしない。その名で呼んだところで、彼女は自分を通じての幻にさえ目を向けもしないだろう。
 ぐっと、手の内の小烏丸を握り締める。悔しくて悔しくて、嫉妬の焔に焦がされてしまいそうだった。その焔に灼かれるにはあまりにも冷たすぎる諦念と絶望の氷に閉ざされていたから、火傷のひとつも負わなかっただけのこと。ただ、彼女を求めても届かないという渇仰を募らせることで冷たさを増す氷に、もはや感覚など残されないほどの凍傷に全身が冒されているだけで。
 呼べば応えるだろう名には、ひとつだけ心当たりがあった。月天将。彼女がかつて自ら宣し、知盛の揶揄によって被せられた“夜叉姫”の名と共に軍場に広く浸透していた、平家の戦姫を称す呼び名。だが、それは知盛が与えたものではなく、逆に塗りつぶしてしまいたいと思っていたもの。この期に及んでその名を口にするなぞ、業腹にも程がある。
「……醒めろ」
 ゆえ、告げる。お前の溺れているその境地からでもいい。ただ、今だけは自分をこそ、”ここにいる知盛”をこそ、見ろと。


 柳花苑はとっくに終わり、娘が舞っていたのは剣舞だった。艶やかに、鮮やかに。教えた覚えのない、けれどそれはだって、“自分”が教えたに相違ない剣舞。知盛がかつて学び、自己流にと手を加え、さらにそこから彼女の体格やら手足の長さやらに合わせて少しずつ動きを修正してあるものだ。それをお前に教えうるのは”自分”でしかなく、教えた覚えがないのならそれは“自分”ではありえない。本当に、本当に何と残酷なことなのか。
 もう残ってもいないだろうと思っていた希求の欠片が、最後にまだひとかけらだけ存在していたらしい。改めて思い至ってしまった真理によって突き崩された内心の何かを傍観する視界と、知盛を振り仰いでなぜか疑念と焦りと愛と哀とを浮かべる娘を見やる視界が、重なり合っては消えていく。
「……ようやく、俺を見たな」
 もう遅い。何もかも、すべてが。残されていないことを知っていた時間は、もう終わる。意に染まずしてお前は降りてしまったが、そも、お前を傍らに置いて興じた戦乱の舞台そのものも、すぐに終焉を告げる。そうでなくとも、この身の最後の骨肉を食まんとする病魔が、知盛に時間を許してはくれない。そして、打ち崩すのではなく手に入れたいと願ったお前は、結局、俺の手が届かないところで勝手に崩壊の奈落へと身を投げてしまった。


 それでもなお、織り上げる舞にて見透かすお前の剣筋は、お前を初めて見つけたかの水島と変わらずに美しい。何もかもを斬り伏せ、切り捨て、振り払って脱ぎ去って置き去りにして。そしてお前は徨くのだろう。自分の手の届かない、自分ではない”自分”の眠る、平家の夢の都へと。
 手が届かなかったことは惜しかった。どうにかして、この美しく儚く救いようのない魂を手に入れてみたかった。そうすれば、何かが変わり、何かが救われるような気がしていた。けれど、もう遅い、もう手遅れ。彼女も自分も、もう、引き返せないところにいる。あるいはそれは、出会った時から定められていたのかもしれないとさえ思えるけれど。
 手に入れることは諦めた。だが、だからといって彼女がどうなる道なれば許せるのかと、聞かれれば何もかもが許せないとしか答えられない。自分が見つけたのに、自分が見出したのに、自分のことをこそ見てくれなかった娘。水面の月。泡沫の夢。陽炎を追いかけるような、それは、夢から覚めてなお見る夢とも。
「お前はどうあっても……俺のものには、ならんのだな」
 終わりにしよう。終わらせてしまおう。きっと誰もがこの判断と行動を狂気の沙汰と判じるだろうが、それでも別に構わない。いったいいつ、自分達がまったき正気のみで対峙したというのだ。自分も、この娘も、阿鼻叫喚の中でしか真理を見出すことができない破綻した存在。時代の狂瀾が生み出した、狂恋を凶刃にて舞いあげることしかできなかった道化にすぎない。
「俺以外の“俺”ゆえに狂うぐらいなら……いっそ。そのまま俺を映して、それこそを醒めぬ夢とすればいい」
 告げたのは知盛の抱き続けた真理。娘を恋うがゆえの理性の極致。あるいは、焦がれるものにこそ手が届かない互いへの、同病相憐れむ思い。
 今こそは珍しくも現の知盛をまっすぐ見据える透明な瞳に視線を据えたまま、差し伸べられる指を受け取り、鞘を払った小烏丸をその胸に突き立てる。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。