虚飾の愛
どうすればよかったのだろうと、狂気と絶望の底にて思い悩むことはもうやめた。“彼”のことは忘れられない。だから、“彼”を夢にして彼のことこそを見詰めることは叶わない。だってこの手で葬って、その感触は今もなおまざまざと思い出せるのに、あれを夢にすることなど許せなかった。許されるはずがなかった。だからといって虚飾の愛を彼に渡すことはできなくて、彼に向かう愛情の真偽を、は否定せざるをえなかった。
どうすれば彼を引き止められたのだろうと、思う。
どうしても彼を引き止めることはできなかったのだろうとも、想う。
だから、引き止めることは能わずとも、最後にせめて、彼の願いの一端を助けることぐらいはなしたいと欲した。それだけが、確かに愛したのに愛することを認められなくて、中途半端に彼に縋りながらも結局何を返すこともできなかったことへの、ささやかな罪滅ぼしになるように思えたのだ。
舞を教えてくれたのは、“彼”と、“彼”の愛した人々だった。並び立ちたくて、彼の傍に在ることを誰にも否定させたくなくて、必死に習い覚えたそれを、彼らはやわらに微笑んで見守っていてくれた。筋が良いですねと、褒めてくれたのは三位の中将。流れるようで美しいと、目を細めてくれたのは桜梅少将。同じ舞台で扇を翻し、満ちると囁いてくれたのは“新中納言”その人。
神事の形式なぞ覚え切れなかった。そこまでは手が回らなかったのが正直なところだ。それなりの時間を共に過ごしたけれど、彼らが物心つくより前から身につけたそれらをすべてものにすることなど不可能なほどに短い時間だった。ただ、同じ未来を歩みたいのだと渇望するほどには、深い時間だったと信じている。
知っている舞を、次から次へと繰り返す。萬歳楽、青海波、蘭稜王。「随分と偏った趣向をお持ちですね」と“彼”に良く似た相貌が目を円くしていたが、すぐさま「兄上のお好きな舞ばかり」と笑われた。舞って、舞って、舞い続ける。満ちてきた潮に砂がやわらかさを増し、足が沈む。裾が水を吸っていっそう重くなり、袖が水面を掠めては徐々に色を濃く染めていく。
「――!」
誰かが誰かを呼ぶ声が聞こえた気がした。けれど、振り返りはしない。腰に佩いた小太刀も、まだ引き抜かない。
無手の指先に扇を思い描き、奉じるは柳花苑。脳裏をよぎる光景は、遠い初秋の夜の六波羅での宴席と、それを凌駕するほどに鮮やかな、夏の熊野は速玉大社。共に歩いた山道に満ちていた蝉時雨が、潮騒に乗って耳の底に甦る。
水が膝に届く辺りまで満ちたところで、そしてようやくは柄に手を置いた。鞘走りの音も涼やかに、水平線を仄かに朱に染める黎明の空に銀光が踊る。思考さえも切り伏せて、これぞ最後にと決めていたのは、剣舞こそが己の本質を示すだろうと思ったから。
何も見たくはなかったから、瞼を下ろして無明の闇の中に舞い続ける。見るべきものなどもう何もない。彼が喪われることがもはや確定している世界なぞ、もう、視界に映すだけの価値もない。例外があるとすれば、それはただひとつ。にとっての世界の定義である存在が、視線の先に佇んでいる場合だけ。
聞こえた声は、あまりにもいつもどおり。だというのに、ようやく光の進入を許した視界に映ったのは、感情という感情のすべてを削ぎ落とした、ただ狂気と絶望だけが残されたあまりにも昏い双眸だった。
そんな表情は知らない。“彼”は、涙の一滴も見せてくれず、最後まで理性を失わず、絶望の片鱗は滲ませるのがせいぜいだった。だからは知らない。深紫の双眸がかくな闇を宿すことなど、知らなかった。
「……ようやく、俺を見たな」
どうして、どうしてあなたがそんな貌をするの。呆れるならわかる。落胆するならわかる。軽蔑されるというのなら想定の範囲内。だというのに、なぜあなたはそうやって、狂気と慈愛を背中合わせに、絶望の向こうでかくも満足げに笑っているの。
「だが、お前はどうあっても……俺のものには、ならんのだな」
はたりと瞬いてそっと睫を伏せるさまは、あまりにも美しかった。どこか哀しげに視線を伏せる横顔の美しさは、過ぎるほどに良く見知っている。だから混乱する。自分は果たして、誰を愛しているのだろう。そも、彼と“彼”をこうして別人だと捉えることは正しいのか否か。そんなことさえわかりはしないのに。
「俺以外の“俺”ゆえに狂うぐらいなら、」
いっそ、そのまま俺を映して、それこそを醒めぬ夢とすればいい。
囁きは甘やかでやわらかであたたかくて優しくて。狂気と慈愛を背中合わせに、今にも泣き出してしまいそうなぐらい儚い深紫の光に、はそっと指を差し伸べる。
気管をせりあがってきた血の塊が唇から溢れ、ひゅうひゅうと喘鳴ばかりが耳につく。呼吸が行き渡らない。酸素が足りない。視界が霞む。力が抜ける。
届きはしなかった指先を、けれど彼は確かに捉えて抱きしめてくれた。ずぶり、と。肋骨の隙間を縫って、刃が背中に抜けたことを感じる。
「……これは、小烏丸といってな。我が一門に伝わる宝刀にして、神剣だ」
耳元に声を落とされ、指先から落ちる柄ごと、彼のあたたかくて大きな手がの手を握り締めた。
「黄泉苞に、くれてやろう。ゆえ、迷わず……往け」
手の内からもはや己のものとして馴染ませることの適った“彼”の刀が引き抜かれ、腰の鞘に収めて取り上げられる。代わりに佩かされる空の鞘の感触に、どれほど愛されていたのかを思い知って、力の入らない指でそれでも彼に縋りつく。
「この神剣なれば、お前を平家の夢の都へと、確かに導いてくれようよ」
お前の行きたかった、お前が求める男の許へと。
絶望と狂気に染まった表情を浮かべていたのに、声はなぜだかどことなく誇らしげで、切なげに揺れる音調が優しかった。告げたことなどないのに、思い至るはずもない突飛な可能性なのに。彼がすべての真理に到達していたことを、そしてはようやく知る。それでは自分は、いったいどれほどの絶望を彼に与えてしまったのだろう。誰よりも鮮やかに生きることを体現する彼に、誰よりも艶やかな死を重ね続けた無知な残酷さに、けれどこうして彼は詰る言葉のひとつも与えない。
Fin.