朔夜のうさぎは夢を見る

夢と現の断崖絶壁

 生きるべしと、守られるべしと、そうして最後の意地と愛とに庇護された一団の中に入れようか。そう誘ってくれたのは還内府だった。知盛が臥せっているところを人知れず訪ね、愁いを帯びた表情で見舞った帰りに与えられた言葉だった。
 恩があるって話だったけど、それでも、胡蝶さんは女の人だし、これ以上巻き込みたくもないし。
 惑うように、躊躇うように、希うように。ぽつぽつと重ねられた言い訳は、何より肝心な言葉を飲み込んでいた。
 それに、もはや戦力にもならないし?
 からかうように微笑んであえて告げてやれば、今度こそはきと絶望に翳る紺碧の双眸が、に懇願する。
 頼む、頼むから生きてくれ。生きる道を選んでくれ。アンタがその道を選んでくれるなら、もしかしたら、アイツだって――。
 振り絞るように紡がれた言葉が、掠れて途切れる。がっくりとうなだれた形のよい頭に、体側できつく握り締められた拳に、は将臣の後悔を知り、還内府の決断を知る。


 もはや戦力にはなるまい。それは、誰よりも自身がわかっていた。それでもなおと厳島に残ったのはのわがままで、それを許容したのは知盛の気まぐれに見せかけた情けだと知っている。戯れに振るうならともかく、もはや戦場には立てない。和議を餌にした福原への急襲において、激戦の地となった生田からの撤退の中で手傷を負ったのはの落ち度だ。
 不調をおして生田の総大将を預かり、崩れた戦線のしんがりをも務め上げた知盛の死角から向けられた術による一撃を、まどろむ蒼焔を呼び覚ますことで叩き落そうとした。常なれば何の問題もなく成し遂げられたことが、けれどできなかった。そういえば、探れども探れども存在がうまく掴めなくなっていたのだと、思い出した時には掲げた刃で多少軌道を逸らされたその金の気の塊が問答無用での右肩を深々と抉っていた。
 “あの時”と同じ場所だと、そんなことをぼんやりと考えていた。ただ、あの時と違ってもう肩が自在に動くようにはならなかっただけのこと。たったそれだけの違いで、は”刃”として戦場に在るという唯一の揺るぎ無い己の存在価値を失い、踏みとどまっていた夢と現の断崖絶壁から無間の狂気へと身を躍らせたのだ。


 きっとそろそろ最後になるのだろう軍議を重ねている知盛達が出払った、これがかつてはこの世の春を謳った平家の最後の拠点なのかと眩暈がするほどの質素な小屋を後に、はふらりと夜闇の中に足を踏み出す。屋島はほぼ不戦敗のまま退いた平家だったが、たとえ不戦勝でも勝利は勝利。勢いに乗った源氏勢が不慣れな海路をそれでも邁進してきている情報は届いており、遠からず厳島に到達するだろうことは末端の兵にも伝えられていた。
 次の衝突がどれほどの重要性を持つものであるかは、誰もが理解している。そも、この厳島は古より尊崇の対象となってきた神域なれば住み着いている住民がいるはずもなく、陣を構えた一角を離れれば闇は純然たる存在感をもって世界を飲み込んでいた。ゆえにこそ特に見張りを置く必要はない。ただ、来たるべき日のために各々しかと身を休めておくようにとの命こそが敷かれている。落日より先の時間は、東を臨む海岸線と見晴らしのよい山頂の見張り台を除き、雑兵の一人さえ姿を見せることはない。
 原生林に覆われた、人の手の入っていない神聖なる島の海岸沿いを歩く。ざざ、ざざ、と。静寂の中に響く波音は穏やかだ。瀬戸内の海は優しい。風の割りに波が穏やかで、野分でも立たぬ限り、水面を激しく揺らすことは少ない。闇が深いとはいえ、月と星とに照らされれば陰影ぐらいは見てとれる。木々の向こうに目的地が見えてきたあたりで、ようやく視線を持ち上げれば遠く浮かぶ山々の影。
 瀬戸内は多島の浮かぶ様こそが壮麗。霊峰を臨み、霊峰を背負い、点在する緑の島々を水平線にいくつも見出すまるで絵巻のような光景。後の世にて名勝の地として人々の憧れを集めることは知っていたが、その片鱗はこの時からあったのだろうと。いびつながらも感嘆に染まった表情で嘯いていたのは、島に退いてより間もない頃の、顔色の悪い還内府だった。


 くるぶしまで浸る海の水は、冷たかった。砂はやわらかく、ひんやりと足を包み込んでくれる。けれど、砂に埋もれるのはせいぜいが足首まで。海神は、己が同胞たる貴船の龍神の愛し子をそのかいなのうちにたやすく抱きこんではくれない。この下はお前が来るべき場所ではないとでも言うかのように、穏やかに、そっと、確かな力での両足を支える。
 引き潮になれば大鳥居までは地続きになるのだと、見知ってはいたが実際に足を運んだことはなかった。だって、あの頃は必死だった。早く力を身につけたくて、早く“彼”の元に戻りたくて、けれど自分の宿す力が恐ろしくて。毎日に必死で、どうしようもなかった。でも、その必死さは本当に尊い時間だった。それはだって、“彼”と共にいられる未来の到来を不安に思いながらも、そこに辿りつくのだという決意だけは無垢なほどに絶対不可侵なもので。
 必死の確信に裏打たれていた可能性を潰えさせたのは自分だ。もはやそれしか道を見出せなかった。彼もそれを願い、二人が二度と道を交えない未来こそが、二人で描いた共に辿りつきたい未来になった。だからは、あの冬晴れの空の下で彼を見送った。空よりも海よりも透明で蒼い焔をもって、“彼”の魂を滅ぼした。


 引き潮となれば渡れる程度なら、完全な干潮でなくとも満潮でさえなくばある程度までは進めるだろうと読んだ。予測は微塵も裏切られず、大鳥居を越えるまでを無事に進み、振り返った先には朧月を背負い、燈明という燈明に灯された明かりによって蒼い闇の中に幻想的に浮かび上がる社の姿。
 ここは、平家の夢と栄光と栄華の象徴。その興亡を、その隆盛を、余すことなく見届けたまう神々のおわす坐所。黎明にもまだ遠い暗がりの中で、は一人、観客のいない舞台を見立ててついと腕を持ち上げる。
 献じよう、この身を、この魂を。同じ終わりにするのなら、せめてはこの身を供物となそう。これしきで願いが叶うかはわからないけれど、仮にもこの身は国生みより連綿と天に坐したもう神のよりまし。徒人よりはよほど捧ぐにふさわしかろうと、皮肉でもなく驕りでもなく、ただ純粋にそう願っては舞う。腰には太刀を佩き、纏う水干には猩々緋の袿を重ねて。
 わからない、わからない、わからない。もう、どうすればいいのかがわからない。自分は“彼”を愛していて、けれど彼を愛しく思う気持ちは本物で。
 歴史の潮はあまりにも残酷で、冷酷無比だった。無論、それこそが時流だということはおぼろげに察している。それでも、八つ当たりよりもなお醜い衝動は殺せない。
 あの優しい総領が、人知れず泣いている背中を遠くから眺めていた。慰めることはなく、咎めることもなく。ただ静かに人払いをして、その背中を真情の読めない視線でぼんやりと眺めている深紫の双眸の後ろから。
 もう駄目だと、きっと誰もが悟っている。だからと提示された最後の苦肉の策に、反論を唱えるものはいなかった。そして、なれば自分こそが囮にふさわしかろうと嗤った男を止めるだけの理屈は、どこにも存在しなかった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。