朔夜のうさぎは夢を見る

二度目の初めて

 完全に散り散りになったはずの意識が収束し、失われたはずの五感が戻ってくることを知覚する。風を感じるのは触覚。風切り音を感じるのは聴覚。世界が闇に包まれていることを感じるのは視覚。潮のにおいを感じるのは嗅覚。それはありえないと、思うよりも先に全身に叩きつけられた殺気に、反射的に腰を探って当たり前のように小太刀を引き抜く。
 いや、小太刀というには少々細すぎる、しかして刀として存分に機能するだろう美しき輝きを放つ銀色の刃。
 驚愕を覚えているのだと、それを自覚するまでには空白の時間が存在した。反射的に敵と判じた存在を切り伏せていた己に対する驚愕ではない。そうして、いつかの軍場では当たり前だった背中の間近で、当たり前のように背中を合わせているという現実に。


 流された視線は不審を伝え、そしてあっという間に興味を完全に掻き消した。無造作に右手を一薙ぎ。それにて散った命にはもはや微塵の関心も向けず、ただひたすらに、闇が払拭されつつある世界でゆるぎなく銀光を振るい続ける。
 もはや戦闘は終盤に近かったのだろう。太陽が完全に闇の向こうから姿を現せば、周囲に転がる屍の山が余すことなく彼女の視界に晒される。
「……さて、と」
 切っ先を向けてくる敵は、いつしか消え去っていた。その代わりに、見知ったいくつもの顔が、彼女に切っ先を向けてその背後に立つ男の言葉を待っている。
「鎖されし日輪より舞い降りし姫君……そう呼ぶにしては、血なまぐさいことだな?」
 言ってそれこそ血の香にまみれているだろう双刀を鞘に納め、男はどこか遠い声でくつくつと笑う。涼しげな鞘走りの音が消え、刀を握り締めたまま、どうしても怖くて振り返れずにいる彼女の頤を背後から掴み、強引に振り向かせる。
「軍場にありて、微塵も動じぬ」
 指先にはぬくもりがあった。もはや触れられないと嘆き続けた、確かな命の息吹。
「かくも上等な小太刀、俺でさえ滅多に持ち出しはせんというのに」
 声は遠かった。もはや彼方と思っていた、あの、出会ったばかりの頃の記憶。
「お前は、ナニモノだ?」
 ああ、そして出会いが繰り返される。これは邂逅ではなく、二度目の初めて。
 あまりにも絶望的な、何よりも恐れていた瞬間の到来を直観し、は静かに視界を閉ざす。確かに自分は世界から切り離された。だが、だからといってこんな“出会い”など、求めた覚えはなかったのに。


 目覚めまでに要した時間はどれほどだったのか。意識が浮上することを自覚する一方で、平衡感覚は絶えず揺れ続ける不安定な地面を知覚する。この揺らぎ方は、馬ではない。ようらり、ようらり。あやすように、宥めるように、すべてを包み隠すように。そう遠くもない懐かしい揺らぎは、あまりにも鮮烈なあの日の記憶の底に焼きついていて、二度と忘れられないだろう、それ。
 すよすよと穏やかな寝息が耳朶を打ち、泣きたいような郷愁を噛み締めては瞼を持ち上げる。あの人ではない。だって、あの人の香りがしない。でも、あまりにも懐かしいから、あの人ではないかと夢想してしまう。
「………かえりないふ、どの」
 そして視界に映ったのは、確かに懐かしい人の寝顔だった。少年と青年の狭間のあどけなさを残す、誰よりも優しかった我らが総領。
 呼んだとたんに涙がこみ上げてきた。彼が“彼”ではないことが悲しいのか、それとも“あの人”ではないことが悲しいのか。その境界は定かではなかったが、とにかく悲しくてはぼろぼろと涙をこぼす。


 そういえば、彼はどうなったのだろう。あの最後の海上戦で、彼は単身、鎌倉方の御座船に乗り込んだと聞いた。そのまま身柄を逃したらしいが、平泉に逃れ、そしてそれからのことはが知るわけもない。
「どっか、痛むのか?」
 いつの間にか伏せて閉ざしていた視界の向こうから、穏やかな問いかけが降ってくる。声はやわらかく、そっと伸べられた指先も優しい。面と向かって触れ合うことはなかった。だから知らなかったけれど、知っていた。あなたがどこまでも優しい人だということを、だってあの人はあんなにも穏やかな瞳でそっと言祝いでいて。
「巻き込んじまって、悪かったな」
 宥めるように前髪を梳かれる。顔を覆った両手は外せない。嗚咽は殺しきれず、涙は拭いきれず、情動は殺せるはずがない。
「怪我はしてねぇみたいだし、落ち着いたら、送る」
 だから、帰れ。な?
 その言葉が心の奥底からの優しさに濡れていることは知っていても、は頷くことなどできなかった。還るべき世界は、とっくに崩壊して、あの冷たく優しく残酷な海の底へと沈んでしまったのだから。

Fin.

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