束の間の白昼夢
まるでこの時間の終わりを惜しむように、望美はしょっちゅう寄り道をしたがった。この時間の終焉は、すなわち熊野川の氾濫が納まること。そうなれば自分達はさっさと本宮に渡るつもりであるし、それはおそらく望美の属する一行とて同じだろう。敵味方が入り混じり、そのことに目を瞑って束の間の白昼夢にまどろんでいられるのは、怨霊に齎された恩恵ですらあった。
「将臣くん、見て! なんか舞台があるよ」
「あ? なんだ、何かあったか?」
「……奉納舞でも、献じるのだろうよ」
追いついた面々に振り返ってはしゃいでみせる望美に、将臣は首をかしげ、知盛はあっさりといらえる。楽士達の装いからして、かなり本格的な奉納舞台であろう。そんなことを簡単に話し合っていると、聞きとめたらしい観客の一人が親切にも「熊野川の氾濫に、院が御心を痛めておいでとのことでね」と説明をしてくれる。
噂の院を据えないまま、院の心を汲んだという熊野川の氾濫を鎮めるための神事の準備が粛々と進められていく。皮肉なものだとうっそり嗤う知盛は、言葉に出しているほど何がしかの感慨を得ている様子でもなかったが、将臣は逆である。ここで院に遭遇できれば手っ取り早かったのにと、そう悔しがるのは、日々をただ漫然と重ねることに対して焦りを募らせているからであろう。望美が惜しむこの時間を、将臣もまた別の意味で、いたく惜しんでいるのだ。
もっとも、先ほどその将臣が言ったとおり、望美は一度言い出したことは翻さない性格であるらしい。意志が強いともいえるが、この場においてはある種のわがままさであるように感じられるのは気のせいではないだろう。彼女は将臣がそれを知っていて、さらに知盛がこうした戯れの類を許容してくれることを見越した上で、実に奔放に振舞っている。
「観ていこうよ!」
「お前、本気か?」
「えー、いいじゃない。私、こっちに来てから舞をはじめてね。興味があるんだ」
「お前が舞? できんのかよ」
「酷い! これでも結構うまいんだよ?」
「ねぇ、あんた!!」
きゃっきゃと交わされる幼馴染同士の気安い会話に、そして飛び込んできたのは珍客。真っ青な表情の白拍子に乞われて、躊躇いをみせはしたものの、望美はあっさりと代役を受けて舞台へと向かう。
その奔放さに少なからぬ呆れを覚えていればこそ、見せつけられた舞の清廉さにはまさに息を呑む思いだった。やはり、彼女は白き龍神に選ばれし神子。ただふわふわと漂うだけだった強大な陽の気が、舞という形式を整えられることによって渦を巻いている。これほどの力の塊が、一門を滅ぼさんと牙を剥いている。戦慄にわななくとは対照的に、手近な木にもたれてその姿を見やっていた知盛の気配が、実に愉しげに昂ぶっていくのを、どこか絶望的な思いで感じ取っている。
「どう? なかなかなものでしょ?」
「なかなかどころじゃねぇよ。お前、いったいいつの間にこんな芸を覚えたんだ?」
「ふふっ、朔に教えてもらったんだよ」
溢れんばかりの喝采を浴びて戻ってきた望美は、感心仕切りの将臣にいたく満足げに笑い返す。将臣自身はこうした芸事を身につけることはなかったようだが、栄華の残照がいまだ目映かった平家の姿を知っているのだ。審美眼は嫌でも磨かれているのだろう。
そのまま仲睦まじげに言葉を交わすところに割り込む勇気はなかったのか、そっと寄ってきた観客の一人とおぼしき老人が、感慨に濡れた声でに声をかけてくる。
「いやはや、実に見事な舞じゃった」
「……ええ、本当に」
「どうじゃろう、もう一指し、舞っていただくわけにはいかんかのう」
言ってついと視線が流された先を見やれば、期待を篭めてちらちらとこちらを見詰めている観客が舞台の前に残っている。心なしか、始まる前よりも人数が増えているようですらあるのだ。
もっとも、当人の意思確認なしにが安請け合いをするわけにはいかない。頃合いを見計らって二人の会話に割り込まねばと息を吸い込んだところで、思いがけない声が老人の要請を受諾したのだ。
「いかな舞を、ご所望か?」
「そうじゃのう。柳花苑なぞ願えれば、この上ないんじゃが」
もう廃れてしまっておるから、難しいか。ゆるりとした問いかけの声に返してから自身で小さく否定を紡ぐも、知盛は気にした風もない。
「柳花苑ならば、なるほど……確かに、返舞としては十分か」
言ってもたれていた木から体を起こすと、いつの間にか遣り取りを中断してじっと様子を伺っていた将臣に「しばし待っていろ」と告げて視線を動かす。
「神子殿には、随分なものを見せていただいた……。不肖ながら、返舞を献じさせていただこうか」
「知盛が舞うの?」
「俺と、姫が、な」
あっさりと放たれた言葉には、息を呑むことさえできなかった。その一言に、その強引さに、瞼の裏にはいつかの夕暮れが蘇る。あの時も、既に決めたことだと言っての意見など聞かず、彼は共に舞台に上がることを決めていて。
一度こうと決めれば翻さないのは望美だけではなく、知盛も同じ。通りすがりに腕を引かれ、記憶と現実に溺れることで流されるまま、は舞台へと導かれる。
Fin.