なんて幸せな籠の鳥
噛み殺しきれずに漏れる嗚咽は痛々しく、コムイはリーバーに用意しておいた客室に連れて行くことと、落ち着くまで付き添うことを命じてを解放した。事と次第によっては状況説明まではしてくれても構わないと指示を出す声は冷徹な科学班室長のものだったが、しゃくりあげる少女を見やる痛ましげな視線は深い憐憫に満ちていた。
「すまんな、室長殿。名を聞いた段階で、ある程度察しをつけるべきであった」
「いや、仕方ありませんよ。というか、ブックマンのおっしゃっていた意味がわかりました。なるほど、訳ありっぽいですね」
「国の定義さえ疑うとは、また面妖なことだ。ヘブラスカは何と?」
「イノセンスが共鳴しているとのことです。恐らく、彼女で当たりでしょう」
わずかに瞑目してから、コムイは少女のためにと用意しておいた紅茶をブックマンに振舞い、ラビと自分にはコーヒーを注ぐ。そのままソファに座り込み、溜め息をひとつ挿んでコムイは誰よりも世界の事情という事情に通じている翁の意見を仰ぐ。
「日本に、トウキョウという都市はありますか?」
「ないとは言い切れんな」
静かな問いには、抑揚を持たない声が返される。
「聞き及んだ限り記憶にはないが、なにせあの国は鎖されてより長い。いずこかにその名の都市が生まれてたとて、不思議はない」
「そこは、ユウに聞いた方が早いんじゃね?」
ブックマンの言葉に継ぎ足すように、ラビがカップを揺らしながら口を挿んだ。
「自分の国のことなんさ、オレらよりよーく知ってんだろ」
「ところが残念、その神田くんはちょっと遠くに行っててね」
帰還は早くとも三日後といったところ。それまで待っていてもいいが、半端な状態で放っておいては逆効果だろう。英語が通じないのは辛いが、ドイツ語がそれなりに通じるならそちらで状況を説明し、事情を把握してしまう方がいい。告げるコムイの判断は妥当なもの。すぐさま納得を示したラビは、ぬるくなったコーヒーを啜りながら「どっちにせよ、面倒な予感さ」と小さくぼやいた。
ついでとばかりに任務の報告を受けていたコムイは、話の途中でふと視線を振り向かせた対面のエクソシストたちに口を噤む。折りよく響いたノックの音に続いたのはリーバーのゆっくりした問いかけ。
「室長? 入っていいっスか?」
「いいよ」
目でブックマンの了承を取りつけ、肯定を返せば開いた扉の向こうからリーバーと、恥ずかしげに顔をうつむかせた少女が入ってくる。外套を脱ぎ、質素なブラウスとスカートのみの出で立ちは街中で見かける少女たちのそれよりも控えめなだけで、大きな差など感じさせないというのに。
『先ほどは、取り乱してしまい申し訳ありませんでした』
言って深々と頭を下げたは、コムイに通訳をするブックマンの傍ら、ラビに促されてソファに腰を下ろす。
「気にしないでいいよ。きっと、辛いことが一杯あったの、ずっと我慢してたんでしょ? ここは、そういう色んな厄介ごとに巻き込まれた人間が集まっているからね。我慢しないで、全部吐き出してくれればいいよ」
気を利かせてカップを持ってきてくれたリーバーに小さく礼を言ってから、コムイは目元の腫れが完全に引いたとは言いがたい少女に向き直った。
「どこまで聞いた?」
『あらましは一通り。ここがあのアクマを産んだ千年伯爵に対抗するための軍事組織であり、唯一の戦力はイノセンスの適合者のみ。ラビとブックマンはそのひとりで、エクソシストと呼ばれる存在』
あっていますか、とブックマンを振り仰いだのは、言葉が不自由な状態での状況説明だったからだろう。事実、固有名詞は変換が間に合わなかったらしく、ドイツ語の文脈に英単語が紛れ込むという奇妙なことになっている。それでも意味はあっていたのでブックマンは応用に頷き、器用にもそのまま固有名詞を英単語に置き換えたドイツ語で補足を加えていく。
『イノセンスは適合者を選び、適合者はすべからくエクソシストとなる。それは神に魅入られたがゆえの宿命。そしてそのイノセンスは世界中に散らばっており、奇怪を起こす原因となっておる。我らがお主の噂を聞いて訪ねたのも、その奇怪に関わっていると考えたからだ』
『イノセンスの奇怪は、言っちまえば節操がないんさ。それこそ何でもあり。だから、が日本から跳ばされちまったのも、イノセンスの奇怪ならばまあ納得がいく』
軽やかに付け加えられたラビの言葉は、核心をつく容赦のないものだった。
思わぬ切り込み方にコムイとリーバーが息を詰める中、目を見開いてからはゆるりと唇を動かす。
『だから、私の知りたいことにも関係がある、と言ったんですね』
『そーゆーこと。逆に言えば、オレらにはそのぐらいしか理由が見つからない』
『よく、わかりました』
重く息をついて頷いたは、しかし肯定の言葉を紡ぎながらも表情を曇らせたままだった。
「えっと、そういうことだから、辛いのはわかるんだけど、もう一度状況説明をお願いしていいかな? できるだけ細かく話を聞けば、僕らも君がどうしてこんな奇怪に巻き込まれちゃったか解明できると思うんだ」
沈み込んでしまった空気をとりなすようにコムイが口を開き、通訳したラビから目を外すとはまっすぐ視線を正面に向けて悲壮な表情で『その前に』と切り出す。
『お願いがあります。すべてを包み隠さず話すので、まずは聞いてください。きっと信じがたいと思いますけど、イノセンスの奇怪が多岐にわたると言うのなら、ありえないと断言はできないと思うんです。だから、とにかく聞いてください』
声もまた表情同様に切実なもので、ひたと視線を据えられたコムイは、遅れてやってきたラビの英訳に耳を傾けながらも目を逸らせない。ただ、少女がこれから告げる内容に対して恐ろしいほどの決意を懸けていることを察し、真摯な表情で肯定を返した。
申告があった時点である程度の覚悟はしていたが、の語る内容はその覚悟を凌駕し、さらに遥か上空を行くものだった。最後までとりあえず聞いてくださいと言われてはいたが、頼まれるまでもなく、最後までどこをどうつつけばいいのかさえわからないまま話は終了した。簡潔にまとめられてはいたが、それなりの時間しゃべり通しだったため喉が渇いたのだろう。すっかり冷めてしまった紅茶で喉を湿らせるの向かいで、コムイは思わず頭を抱え込む。
信じられない。信じがたい。だが、だとすれば世界の中でここ以上に科学技術の進んだ場所はないだろう黒の教団の、科学班の頂に立ったことのあるコムイでさえ見たことのない精密機械をが持っている理由もわからない。司令室に置き去りにされていた鞄から取り出された、文化の違いをひしひしと感じさせる書物も、物珍しい筆記具も、何もかも。
「ヘブラスカの預言どおりということか。室長、この娘で間違いなかろう」
彼女にとっての歴史の教本だという書物をぱらぱらとめくっていたブックマンが、ぱたりと書面を閉ざして顔を上げる。
「なるほど、世界の枠を外れたところに眠る魂。これほどふさわしき表現はあるまい。まさに、世界の外に存する魂か」
「しかし、ブックマン。こんなことが――」
「ありえないとは言い切れまい。事実、嬢は目の前におる。それに、表の歴史に記されることはないが、歴史の裏には“神隠し”によってどこからともなく現れた存在など、珍しくもない」
まさか、実際に“どことも知れぬ世界”からやってきたとは思ってもいなかったが、これではあながち事実かも知れんな。言って茶を含み、ブックマンは黙って反応を待っているに向き直る。
『おぬし、帰れぬ覚悟はもう定めたと言っておったな』
『……還れるなら帰りたいと願うのは事実です。でも、それがとても難しいだろうことさえわからないほど、無知ではないつもりです』
『我らにとって、日本は鎖されてより三百年の遠き国。踏み込むことは難しく、お主をかの国に送ることは決して良策とは思えぬ』
『わたしの帰るべき場所でないのなら、同じと言っても違う国です』
淡々と言葉を結び、そしてブックマンは科学班室長を振り返る。
「君は、イノセンスに呼ばれた可能性がある」
視線を受けてやっと口を開いたコムイは、重い悲しみと静かな哀れみに満ちた声を紡ぎ出す。
「仮に君がイノセンスの適合者で、そのイノセンスに呼ばれたというなら、適合者としての責を果たした暁には、あるいは君のいた世界に帰れるかもしれない」
それは、何と残酷で何と一方的で、何と甘美な誘惑。適合者としての使命を全うするということ。それはエクソシストとして戦って戦争を終わらせるということ。もしくは、そこに行き着くことができないのなら、戦場でその命を散らすということ。すべてを言葉にすることはなく、コムイは黙ってラビの訳した言葉に耳を傾けているがすべてを聞き終えるのを待つ。
「仮に適合者じゃなかったとしても、教団にいれば奇怪の情報には事欠かない。ここにいる気はないかい?」
『お世話になっても、いいんですか?』
「適合者だったらエクソシストとして、そうじゃないなら別の仕事をしてもらうけどね」
『構いません。お願いします』
身寄りのない、行くあてのない、誰にも理解してもらえない孤独な少女。差し伸べた手に安堵の笑みを浮かべていられるのは、きっと今だけ。甘く残酷な可能性に瞳の奥が耀いたのは、見ない振り。囲い込みは終わった。あとはとどめの一撃を刺しておしまい。
凪いだ瞳ですべてを記録するブックマンと、同じく静かな瞳ですべての言葉を過つことなく繋いでいくブックマン見習いと、痛ましい表情を隠しきれない科学班班長と。すべてを混ぜ合わせたような表情で、コムイは立ち上がって手を差し伸べる。
「さあ、じゃあ一緒に、イノセンスの番人に君の運命を問いに行こう」
Fin.