来ない終わりを待ち続けてる
町の住人がすべて消えてしまったから、という理由で少女が町を出るところまではスムーズにことが運んだ。次なる難関は彼女をいかに説得して黒の教団に連れて行くかだったのだが、思いもかけず、それが難関でさえないことをブックマンとラビは思い知らされる。
「へ? いいの? そんなに簡単にオッケー出せちゃうわけ?」
「……何か問題でもありましたか? だって、行ってお話をすれば、お金をいただけるんでしょう?」
身寄りもなければ職もない身としては、それはありがたい限りの儲け話だとは笑う。しかも、旅費の類もすべて負担してもらえるというのに、断る理由は特になかった。
「それに、私の知りたいことにも関係している、と言ったのは修道士さまでしょう?」
「あー、その修道士さまってのなし。オレ、ラビっての」
「ラビさま?」
「ちっがう! ただのラビ!!」
ことりと首を傾げての問いに訂正を入れれば、ますます首の角度が深められる。慣れない呼ばれ方にいっそ鳥肌を立てる勢いでまくし立て、勢いに呑まれたらしいが小さく「ラビ」と呟くのに満足げに頷き返した。
あっさり得られた承諾により、一行は追加調査のために探索部隊を残し、一路教団本部へと向かう。旅慣れないを気遣い、その道行きは普段ラビたちが任務に出るものより格段にゆっくりと進められたが、体感時間としては普段よりも短いぐらいだったとラビは思う。
警戒が抜けきらない様子のはあらかじめラビたちの聞いていた話に加えてほんの少しだけ、たとえばパンを焼くのが苦手だとか、その代わり裁縫の腕はいいとか、そういった他愛のない話をとりとめもなく口にした。そして、ラビが世界中を飛び回っていたことを聞くや、その話をしてくれとせがんで聞き手に回ってしまったのだ。
巧みな相槌と興味深げに煌めく瞳は無邪気だったが、その向こうに滲む凄惨な気配を見逃すほどラビもブックマンもヒトというものを知らないわけがない。一語一句聞き漏らすまいと身を乗り出し、瞳の奥に真剣な光を宿すは、どう見ても好奇心と興味だけでラビに話をねだったようには思えなかった。
そうこうするうちに夜は更け、途中の駅で購入した軽食をほんのわずかばかり口にすると、はあっという間に眠りに落ちた。
「じじい」
「わかっておる。考えておるのだ。少し黙っとれ」
無防備に眠りこける体に毛布をかけてやり、ラビは低く師を呼ぶ。
「おかしすぎるさ。いくらなんでもモノを知らな過ぎる。リアクションは結構作ってあったけど、それにしてもここまで基本的なことを知らないのはおかしくね?」
「だから、黙っておれ。その可能性を考察しておる」
「可能性って、ンなもんひとつに決まってる。――うっわどーしよ。オレ、ヘブラスカの言ったことすっげー疑ってた。てゆーか、信じてなかった」
軽い声音に戦慄を滲ませ、ラビはから視線を逸らさないまま呻くように呟く。イノセンスの奇怪とやらには早々に慣れたつもりだったが、やはり神の結晶は人知を超えた存在なのだろうか。
「決め付けるな。それにはまだ早計だ」
「じゃあ、じじいは違うと思うんさ?」
あくまで慎重なブックマンに問い返せば、巌のような声が「否」と返す。
「だが、決め付けるな。良いか。結果は事実となるが、推測はあくまで想像に過ぎん。我らは可能性を片端から記録することはあっても、その可能性をひとつに断定することがあってはならん。それは歴史を歪曲することになりかねん」
そして重ねられたのは記録者としての在り方。溜め息交じりに承服の声を返し、三度目の「黙っておれ」の言葉にラビはおとなしく口を噤む。
その存在こそがイノセンスの起こす奇跡とも言えるだろうイノセンスの番人は、神の結晶を通じて『夢』を見るらしい。それが歴史を記したキューブの適合者ゆえなのか、それともヘブラスカ自身の能力なのかを知る術はないが、とにかくかの存在は夢を見る。それはヘブラスカの夢想ではなく、イノセンスの抱く夢であり記憶。ゆえにそれは『預言』と目され、教団に所属するすべてのエクソシストは己に適合したイノセンスの『預言』を通じ、多かれ少なかれその行く末を指し示されるのだ。
そして今回、珍しくも胎の内に宿したイノセンスの原石を通じて『夢』を見たというヘブラスカの言葉は、そのまま適合者の手がかりとして全エクソシストに通達されていた。いわく、世界の枠を外れたところに眠るその魂を逃すことなかれ、と。
それはあまりにも漠然とした言葉であり、たとえば神田など「知るか」の一言で切って捨てていた。ラビとしても正直な感想は似たり寄ったりだったのだが、遭遇した状況はあまりにもお膳立てが整いすぎている。
世界のことをあまりにも知らない少女。世界中の裏歴史を記録するブックマンでさえ聞いたことのない国を己が故国と言い、奇跡としか呼びようのない事象によってかの地に降り立ったという少女。アクマにさえその存在とイノセンスの関係を疑われていた少女。世界を外れた魂と、そう呼び習わされても不思議のない存在が、目の前で眠っている。
「世界の枠の定義によるだろうな」
しばらくして口を開いたブックマンの言葉はそれまでの会話と脈絡がほとんど見えなかったが、脳裏であらゆる可能性を考察していたラビにとっては理解のたやすい内容だった。
「そうさな。オレらだって、言ってみれば世界の枠から外れた存在さ」
「さよう。だが我らは枠の外で眠っているのではなく、すべてを傍観しておる」
静かなラビの応えに深く頷き、ブックマンは黒く縁取られた双眸を細める。
「いずれにせよ、可能性は高まった。しかし、面倒だな」
「何が? この子が適合者だったらラッキーじゃんか」
がらりと声音を明るく変えた弟子を「馬鹿が」とひんやり罵り、人の世のあらゆる側面を知り尽くした記録者は声に憐憫を載せる。
「あのような目に遭った後だ。敵愾心を燃やし、喜びエクソシストになってくれるならば良い。だが、恐れたら? 身寄りもないと言っておった。ひとつをのぞき、その娘を戦場に追い立てるための交換条件はない」
「そのひとつは?」
探るような揶揄するような、深く昏い声でラビは問う。年若くとも、未熟でも、それでも傍観者としてすべての事象を『観察』する目を持ったものの声で。ゆえにブックマンは決してはぐらかさない。すべての事象はただ事実の羅列。そこに挟まれる感傷は、記録者には必要ない。ただ声で憐れむのみ。
「“元いた場所へ戻るための術”だ」
それはきっと、少女が縋りつかざるをえない、甘やかな罠だろう。
Fin.