絶えず世界に拒まれる
切り立った崖を見るなり蒼褪めた顔で「こんなところ登れません」と言うから、普通の人間はそんなものだろうとせっかくイノセンスを使って頂上まで連れて行ったというのに、はラビに礼を言うどころかさらに顔色を悪くして何も言うまいと必死に何かを飲み込んでいる様子だった。
「もしかして、ちょーっと酔ったり?」
「……せめて予告が欲しかったです」
「えー? 登るよって言ったじゃん」
「まさか、あんな方法だとは思わなかったんです!」
なんとか落ち着いたのか、胸元を押さえながらも叫び返す声は力強い。もう大丈夫だろうとあたりをつけ、ラビは立ち止まってしまっていた位置から一歩踏み出す。
「ま、そう言いなさんなって。ああでもしなきゃ、自力で登るしかなかったんだぜ?」
「その点は感謝しています」
促すように手招いてから歩き出せば、小走りに隣に追いついてからは案外素直に頷いた。
「ありがとうございました」
軽い会釈つきで穏やかに紡がれ、ラビはぱちりと目をしばたかせる。彼女が礼を言うべき立場にあるのは事実だったが、説明が足りなかったのも事実なのだ。もう少し不機嫌な調子で言われるかと思ったのだが、その辺は思った以上にあっさりと割り切っているらしい。
流れでラビが持っていた荷物に手を伸ばし、自分で持つと言いはじめたを軽くいなし、ラビはくつりと笑ってちょうど目の前に現れた門に向かって声を上げた。
『おーい、連れてきたぜ!』
『ご苦労さま、ラビ。でも、説明はちゃんとするべきだったね』
『そこはもう終わったんだから、蒸し返すなっつーの。さ、ちゃきちゃき検査しちゃおうぜ』
ぱたぱたと寄ってきた無線ゴーレムを片手で追い払い、ラビはきょとんと目を見開いているを目の前に押しやる。
「びっくりするだろうけど、動かないで。新しくここに入るやつは、みんな中身の検査をする決まりなんさ」
「え? ええ」
親切なようでいてその実とても曖昧な説明に小首を傾げながら頷いたは、ラビに目をやっていたため眼前にぬっと迫ってきた門番に気づくのが遅れて「ひゃっ!?」と悲鳴を上げる。そのまま反射的に後ずさりそうになるものの、背中にいたラビが肩を押して留めるため逃げることも適わない。
「大丈夫だって。こいつが門番なんさ」
『レントゲン検査! アクマか人間か判別!!』
巨大な眼球がぴこぴこと蠢き、照射される光の中で今度こそは硬直する。支え続けるラビの手がなければ、腰を抜かしてへたり込んでいただろうことは確実だ。上から下までをくまなく見やっていた眼球がまばたくことで光は収まり、門から伸びていた顔も元の位置に納まる。
『クリア! コイツ人間。よって開門!』
「よーし、じゃあ入ろうぜ」
地響きを立てて開く門を唖然と見つめているの隣に立ち、再び寄ってきた無線ゴーレムに向かってラビが何事か問いかければ、先ほどの声が『うん。よろしくね』と応じる。それを確認してから、ラビはぽかんと口を開けて門を見上げているの腕を引き、城内へと踏み入る。
きょろきょろと物珍しそうに周囲を見回しているの手を引きながら、ラビは簡単に目に映るものを説明しながら足を運ぶ。
「ほれ、そこにも掲げてあるだろ? 薔薇十字が教団のシンボルなんさ」
「ラビだけ衣装が違うのはどうしてですか?」
「これはエクソシストが着る団服だからな。着るだけで身分証明にもなる代物」
ふぅんと頷き、人気のない廊下に踏み入ったところでは改めて口を開く。
「さっきの人たちが話していたのは、英語ですか?」
「そう。ここはいろんな国の人間が集まってるから、共通語の英語で運営されている。はドイツ語しかダメなんだろ? だから、今日はオレが通訳な」
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけして、ごめんなさい」
「気にすんなって」
返事をする前にわずかに口篭ったのが気にかかったが、ラビは特に追及することなくからりと笑う。
「こっちの都合でわざわざ連れてきたんだから、このぐらいは当たり前。もっと堂々としてればいいさ」
「そう言ってもらえると、気が楽になります」
安堵した口調でぽつりと零し、おどけた調子で笑ったを流し見てラビは足を止める。いつの間にそれだけ歩いていたのか、二人の前には聳え立つ両開きの扉。軽くノックをして中からの返事を待ち、ラビは重厚なそれに手をかけると一気に押し開けた。
部屋の中には、ブックマンと白衣を着た青年、それとラビのものと似た、しかし色彩が正反対の衣装を身に纏った青年が待っていた。
「ご苦労であったな、嬢。怪我はないか?」
「はい、大丈夫です」
「オレってばそんなに信用ないさ?」
「説明が足りんのじゃ、ボケ」
書類に埋め尽くされた床に躊躇したものの、誰も気に留めた様子がないことに勇気を振り絞り、は招かれるままブックマンの立ち上がったソファへと近寄る。そのままどこか漫才じみた遣り取りを交わす師弟を微笑ましく見やっていたが、はたと我に返っておなじくじっと観察の視線を向けている二人の青年に向き直り、慌てて頭を下げた。
「はじめまして」
『はじめまして、くんだったね? ブックマンから話は聞いてるよ』
「まあ、座ってくれ。ブックマンとラビも」
眼鏡をかけた青年が笑いかける横から、白衣の青年が少しぎこちないドイツ語で話しかける。
『あれ、リーバーってばドイツ語できたんさ?』
『少しだけな。お前と室長のテンションについていききれないと可哀想だから、俺は緩衝材。通訳は任せるぞ』
楽しげな笑い声を上げるラビに小首を傾げるに、ブックマンが「あまり気にされるな」と言いながら組んでいた手を解く。
「そちらの眼鏡の御仁はコムイ・リー室長。我らの上官に当たる。白衣はリーバー・ウェンハム班長といってな、言語学者であり多少はドイツ語にも通じているゆえ同席してもらうこととした」
てきぱきとなされた説明に、それぞれ手で示された順に頭を下げてからは改めて姿勢を正す。
「はじめまして。・と申します」
言って膝を折り、丁寧に礼を送って顔を上げたは、なんとも言いがたい表情で自分を見つめる四対の視線に、わけがわからずただぱちりとまばたいた。
何かまずいことでも言っただろうかと思わず救いを求めてブックマンを見るが、翁は神妙な表情で『そうか、迂闊だった』と呟いている。コムイは言葉が通じないから除外。続けて見やったラビはぽかんと口を開けているし、残るはと思ってその隣にいたリーバーに視線をずらせば、唖然とした表情をそのまま映した声が絞り出される。
「……ファーストネームはでいいのか?」
「はい」
「それ、フルネーム?」
「そうです」
『日本人?』
ジャパニーズ。慣れない英語で告げられても、その発音は理解できる。この世界に来てはじめて耳にした母国を示す単語に、はそれこそ目を見開いて声を失う。
『あー、ドイツ語では何ていうんだ? おい、ラビ! 通訳が役に立たなくてどうすんだよ!?』
『え、あ、そうか』
そこまでマニアックな単語を把握していなかったリーバーに急かされ、ラビは慌てて脳裏にドイツ語の単語表を呼び起こす。
「って、日本人?」
「日本人、というのがさっきの言葉と同じなら、きっとそうです」
『定義の違いがあるの? リーバーくん、ちょっと日本語通じるか試してよ』
曖昧に頷いたを見やり、それまでの遣り取りをすべてブックマンによって通訳されていたコムイが言語学者に指示を飛ばす。
〈わたし、にほんごできる。すこし。わかる?〉
困ったように頭をかき、確かめるようにゆっくりとリーバーが紡いだのは紛れもなくが慣れ親しんでいた言葉。自分以外の声で聞いた本当に久々の母国語に、は場所も立場も忘れて思わず泣き崩れていた。
Fin.