朔夜のうさぎは夢を見る

辛くも逃れた世界は死んだ

 ゆらゆらと揺れる、それはいつかどこかで見た夢のように。
 ゆらゆらと、ゆらゆらと。
 定まらない視点、定まらない聴覚、納まらない思考。
 悲しみと絶望だけがゆらゆらと揺れ続ける。
 やっと辿りついたのに、やっと見つけたのに、やっと掴んだのに。喪われてしまった、永遠に。
 そも、はじめから掴んだそれは夢であり幻。夢と知りつつ世界を構成していたすべては打ち砕かれた。あとは、目を覚ますだけ。残酷で悲しくて救いようがなくて、けれど逃げ出せない、すべてを許容する優しい世界。そここそが生きる場所。
 悲しみと絶望に直面するだけならばいっそ眠っていたい。切ない願いに反しゆっくりと浮上していく意識に伴い、瞼の向こうに透ける光を感じる。
 いきなり目を開けたら眩しいだろうから、慎重に。瞼を持ち上げた先には、碧の隻眼をくるりとまばたかせる赤毛の青年がいた。


 昏倒した少女を客間に運び、寝かしつけたベッドの脇に座り込んでいたラビは、音もなく扉を開けたブックマンにすいと視線を流す。近隣の町で聞き込みにあたっていた探索部隊員たちを呼び、事後処理は任せた。生き残った人間がいれば嬉しかったが、どうやらこの町はアクマの巣窟だったらしい。代わりに持ち主が灰と化した衣服が残されていたらしいが、その正確な数の報告はまだ受けていない。
 ライフラインが生きていたのは僥倖だった。教団への電話連絡を買って出たのはブックマンであり、ついでに科学班室長と唯一の生き残りの少女の処遇を話し合ったはずだ。
「で、結局この子どーすんのさ? コムイは何て?」
「その娘がイノセンスに関わりのある可能性がある。とりあえず連れ帰り、ヘブラスカに診てもらう」
「それが妥当だろうな」
 シスターの皮を被ったアクマの言葉がラビの中で反復される。彼女は「どこからか跳ばされた」のではなく「どこからか現れた」のだと。アクマでさえイノセンスの関与を疑っていた。ならば、エクソシストがイノセンスとの関与を疑うなという方が無理な話。きっとコムイがありとあらゆる手段を駆使して真実を探り出そうとするに違いない。それこそが彼の職分なのだから。
「まあ、素直に協力してくれればいいんだけど」
 思考の行き着いた先だけが言葉として零れ落ちる。脈絡のない呟きは、しかしブックマンには諒解できる内容だったのだろう。小さな溜め息交じりに少女を一瞥したところで、件の相手が睫を震わせているのが二人の目に入った。


「目ぇ覚めた?」
 ゆるりとまばたきを繰り返すを覗き込み、ラビは唇の両端を吊り上げた。胡散臭いことこの上ない面もあるが、が人間であることはわかっている。ならば、フェミニストのきらいのあるラビにとっては気遣うべき対象だ。
 頼りにしていた相手がアクマで、自分を殺そうとしていたなど、並大抵の衝撃ではないだろう。徐々に焦点を合わせていく漆黒の双眸を見つめながら、そういえば彼女は色彩が東国のエクソシストによく似ているとラビは思う。
「オレのことわかる? 身体は大丈夫さ?」
 人好きのする表情と声の作り方は完璧。目で促すブックマンに応える形で会話の主導権を握りながら、ラビはさりげなくの状態を観察する。
「……シスター」
 ポツリ、と。呟かれた声にラビが抱いたのは憐憫の情と、厄介なという思いだった。
 同情は存分にしよう。彼女はその存在さえ知らなかったろう悲劇に巻き込まれたのだ。しかし、ここで精神を崩壊させられては任務に支障が出かねない。揺れる双眸から視線は外さず、ラビは繰り返す。
「オレのこと、わかるか? 声は聞こえてる?」
「聞こえています」
 一言ずつ区切って問いかければ、今度は案外しっかりした声が返された。


 視線を巡らせ、ラビを認識した上ではこくりと首を振る。
「良かった。身体は? どっか痛いトコある?」
「いいえ。なんとも」
 今度は首を横に振り、そしては俯いた。寄せられた眉根は困惑と悲しみを表している。
「助けてくれたんですか?」
「それが仕事さ」
 身体に力が入ったのがシーツ越しにも知れた。逸らした視線を戻しながら問うに、ラビはこともなげに答える。
「あれのこと、知りたい?」
 それは何気なさを装った決定的な質問。踏み込むか、踏みとどまるか。何も知らない相手に問うのは卑怯かもしれないが、いずれにせよ引きずり込まねばならないなら同じことかと思い直す。そして返されるのもまた何気なさを装った痛烈な皮肉だった。
「知らせたいから、残ったのでは?」
「まあ、ね」
 ぼんやりしているようでいて、思考回路は健在らしい。静かな表情には悲しみと諦めが浮かんでいる。意外さを押し隠してへらりと頷き、ラビは笑みをかたどる口元に酷薄さを刷く。


「きっとあんたが知りたいことにも関係している。だから教える。その代わり、あんたのこともちゃんと教えてな?」
 推察が事実に変わるまで、そう時間はかからないだろう。怯えと驚きを滲ませたににぃと笑いかけ、傍観者見習いは師に頷きを送る。
「立てる?」
「大丈夫です」
 手を差し伸べれば、は素直に助けを受けて身体を起こし、ベッドから床に降り立つ。
「どんな結末になるにせよ、もうここには戻れない。この町は死んだ。――荷物、まとめてくるといいさ」
「少し、待っていてください」
 わずかな瞑目。そして静かに言葉を紡ぎ、はゆっくりと足を踏み出した。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。