鼓動を置き去りにした瞬間
また話を聞かせてくれと願ってから、二人の聖職者はあてがわれた客間の前で少女を解放した。立ち去る足音は律動的で、乱れなどひとかけらも感じさせない。
「で? じじいはどう思うんさ?」
「嘘は言っていないな」
不信感も顕に声を上げたラビに淡々と答え、ブックマンは皺ひとつなく整えられた寝台に腰を下ろす。
「恐ろしく信じがたい話だが、イノセンスの奇怪であるならば不思議はあるまい。とにかく、現場に行くしかなかろう」
「でもさー、おかしくねえか? 自分がいた国の名前さえわかってないんだぜ。トウキョウだなんて、俺、聞いたこともねえ。ブックマンが聞いたことのない国の出自って、信じて大丈夫なのか?」
「でまかせを言っている様子はなかった。恐らく、国の名ではなく都市の名を答えたのだろう。ヴァチカンの意味もわかっておらん様子だったからな。そこまで警戒する必要もあるまい」
納得のいかない様子の弟子を軽くいなし、深々と溜め息をついてからブックマンは続ける。
「見知らぬ、言葉さえ通じぬ場所に唐突に飛ばされ、ようやく落ち着いたと思えばそれを掘り返す人間が現れた。警戒するのも無理はない」
「あー、まあ、そのとおりか。あちらさんからすれば、怪しいのはこっちなわけか」
「そういうことだ。すべてを語ったわけではなかったようだが、何、我らはイノセンスさえ確保できればそれでよい。あまり気にするな」
「りょーかい。ま、すべては現場を見てから、ってな」
師の言葉に承諾を返したところでちょうどよく叩かれた扉に明るく返事を放り、ラビは食事の支度が出来たと告げる件の少女に人好きのする笑みを投げかけた。
話を一通り聞き終わった段階で約束を取り付けていたブックマンとラビは翌日、の案内で森の中を歩いていた。町からさほど離れてもおらず、なだらかに山を描くそこをは慣れた調子で先導していく。
「山歩きには慣れておいでか?」
「……何か手がかりがないかと思って、結構よく来ていたんです」
いい加減、諦めましたけど。肩越しにブックマンをちらりと振り返り、苦笑を滲ませては呟くように答える。
「今も、散歩も兼ねてそれなりに来ます。諦めたけれど、諦めきれないんです。未練がましいことだとは思いますけど」
「じゃあさ、これまでこの辺で何か変なこととかなかった? どんなことでもいいんだけど」
「特には何も。何もない、平和な町ですよ」
顔を前に戻して歩き続けるは、隣に立つラビに視線を移して苦笑を深める。
「お役に立てなくて申し訳ありません」
「いやいや、何もないのが一番さ」
「そうですね」
軽やかに笑うラビに同意を返し、木立の向こうをは指差す。
「あそこです。あの樫の木の根元にいたんです」
言いながら辿り着いたのは、周囲の木々とは一線を画する大きさの巨木。森の主といった風情を漂わせて聳え立つ幹にそっと手を押し当て、はブックマンとラビを振り返る。
「知った道を知ったように歩いていて、でも、一歩踏み出した先はここでした。それ以上のことは何もわかりません」
「この木に、何かいわくがあったりはせぬか?」
「森の中では一番古いということぐらいしか。他は何も聞いたことがありません」
ためつすがめつ木を眺めやり、問うたブックマンは幾分気落ちした調子で「そうか」と引き下がる。実際に目にしてみれば何かしら感じるところがあるかと期待していたのだが、特に変化はない。黒の教団に身を寄せてからさほどの時間も経っていないが、こうした空振りの任務がほとんどなのだろうことは察するに難くない。いちいち気落ちしている暇はないだろう。気遣わしげに見やってくる少女に礼と謝罪を述べ、ブックマンは町に引き返そうと提案した。
気にするなと告げたものの、は帰る道々、町で聞いた他愛のない話を取り留めなく語り続けた。それはどこにでもある七不思議のようなものであり、ブックマンもラビも飽きるほどに頭の中にストックしてある情報と酷似したものばかり。それでも、必死になって語り続ける少女を無碍に扱うこともせず耳を傾けているのは彼らが人に紛れ、噂へと姿を変えた稀少な真実の存在を知るものだから。
愛想よく相槌を打つ役割をラビに任せ、黙々と歩いていたブックマンはふと肌を掠めた言い知れぬ違和感に足を止める。同じものを感じたのだろう。数歩前を歩いていたラビも足を止め、訝しげに首を傾げるを押し止めている。
「ラビ」
「わーかってるさ」
嫌でも高まる緊張感が向かうのは目指す先。門を通じて見えた町の中に、既に見慣れてしまった悪性兵器が浮かんでいる。ちらと目線を交し合ったのはほんの一瞬。次の瞬間、ラビは町へ向かって疾走し、ブックマンは呆気に取られるの腕を引いて厳しい声と表情で「ここを動かれぬよう」と忠告を言い渡す。
「どういうことですか? 何かあったんですか?」
「町が悪しきものに襲われておる。我らはあれを退じる術を持つゆえ、嬢はこちらで待っておられよ」
「え……?」
目を見開き、理解できないとばかりに頭を振るにもう一度「動かれるな」と言いおき、ブックマンもまた町へと踵を返す。見かけからはとても想像できない俊敏さであっという間に姿を消したブックマンの行き先、ようやく慣れ親しんできた町からは爆音が響き、煙が上がっているのが見てとれる。
「……シスター!」
暫しの自失を挟み、しかしの頭で一番の重みを持って響いたのはブックマンの忠告ではなく日々を共に過ごすシスターの笑みだった。
倒壊している建物や立ち込める砂煙になど見向きもせず、はまっすぐ教会を目指した。また失うのか。かけがえのない存在を、かけがえのない居場所を、また。渦巻くのは際限ない恐怖であり、不安が伝播してしまい、硬直するばかりでうまく動かない足を必死に動かしては走る。
町外れにある教会に破壊の余波は及んでおらず、聖堂では集まってきたのだろう町の人々が不安そうに顔を見合わせていた。
「ああ、!」
「無事だったのね」
「怪我はないか?」
息を切らせて通路を行くを見かけ、集っていた人々が口々に声をかけるが、それらに答える余裕などない。
「シスターを知りませんか!?」
近くに寄ってきた中年の女に縋るようにしてが問えば、相手は穏やかに微笑んで肩に手を置いてくる。
「大丈夫だよ。シスターは奥で怪我人の手当てをしているからね」
「ご無事、なんですね?」
ほっと息をついて俯くの肩に置かれていた両手に、そっと力が篭められる。町の人々はみな優しい。異邦人でしかないを受け入れ、気遣い、励ましてくれる。また心配をかけてしまったことを申し訳なく思い、滲む涙を拭って気丈に顔を上げようとしたところで扉を乱暴に開ける音が響き、凛と強い声が糾弾の言葉を織り上げる。
「アクマども、そこまでさ!」
声の主は、先ほど別れた青年だろう。もしかしたら、教会まで良からぬものがやってきたのかもしれない。聖職者ではないが教会に身を寄せる立場として、一般人である町の人々をより安全な場所へ導かねばならない。言葉や礼節と共に叩き込まれた感覚に従って慌てて目を上げた先でが見たのは、あるはずの女の顔ではなく、照準が眉間に合わせられた巨大な砲身。
驚きと困惑にただ目を見開くばかりだったの目の前で、女の体が炎に包まれ灰と化す。その向こうにいた町の人々も同様に身体から次々と砲身が生え、それをラビが巨大な槌で次々と叩き壊している。
がくがくと震える膝は身体を支えるのに微塵も役に立たず、ふらりと倒れこんだ背中を支える馴染んだ気配。
「? 大丈夫ですか?」
「シス、ター」
穏やかな笑みはいつもどおりだが、その背後にはシスターに従うようにして不気味な砲身をいくつも生やした球状の何かが浮いている。回らない呂律で縋るべき相手を呼ぶが、その笑みのあまりの変わらなさがかえって違和感を掻き立てる。ざわざわと落ち着かない神経に眉根を寄せ、なんとか指をシスターの腕に這わせれば慈愛に満ちた声が「残念です」と呟く。
「お前を生かしておけば、いずれイノセンスに辿り着くと思ったのに。イノセンスを壊せば、伯爵さまに大変喜んでいただけるのですよ?」
とんだ外れクジでしたね。囁く声が何を言っているかを理解できないは、見慣れたはずのシスターの顔が左右非対称に歪み、その皮を破って姿を顕した人型の、しかしシスターとは似ても似つかない存在に息を呑む。
「お前を気に入っていたのは事実です。だから、わたくしの成長の糧にしてあげましょうね」
大きく裂けた唇をにいと吊り上げ、シスターだったそれは鋭利な刃物と化した巨大な腕を振りかぶる。
「さようなら、異邦の迷い人。お前をこのような奇怪に巻き込んだ偽りの神を恨み、果てなさい」
処理の追いつかない現実から逃避しつつあるのか、暗く光を失い、音さえも遠くなっていく世界に最後に響いたのは、信仰とはかけ離れた言葉を紡ぐ聞き慣れた老シスターの深い声だった。
Fin.