見えない重さに軋む運命
外国語の習得には、言葉の通じないそこに三ヶ月も放り込まれれば十分だとよく言うが、正にそのとおりだと身をもって実感することになるとは露ほども思っていなかった。既に放り込まれて一年が経過した身としては、会話は上々、読み書きは何とか。まさか、第一外国語である英語さえろくに扱えない身空で、ドイツ語がここまで堪能になるとは思わなかった。事実は小説より奇なりといったところか、それとも必要に迫られての火事場の馬鹿力といったところか。
こつこつと床を蹴る音が石造りの廻廊によく響く。生活の場として大分馴染みはしたが、やはり教会というのは独特の空気が滲む場であるとはいつも思う。しんと澄み渡った空気には自然と背筋が正される思いであるし、全身を洗い清められるようで心地良い。
「失礼します」
ノックをしてからゆっくりと片手で客室の扉を開き、滑り込んだところでトレーを片手から両手に持ち直す。それから叩き込まれた礼節を駆使して膝を折り、ゆるりと挨拶を送れば穏やかな笑みをはらんだやわらかい声が返される。
「ありがとう。お客さまにお渡しして」
「はい」
老齢に差し掛かろうというシスターは、やわらかな物腰と揺るぎない厳しさを持ち合わせる人物だった。
道に蹲り、年甲斐もなくわんわん泣き喚くを通りがかりの町の人間がいぶかしみ、教会へと連れて行ったのがはじまり。言葉も通じなければ得体も知れない。思い返せば打ち捨てられても、最悪迫害されたり身柄を売り飛ばされても仕方なかっただろうに、シスターは根気強くが泣き止むまで待ち続け、寝食を保障したばかりか言葉をはじめとしたあらゆる教育を買ってでた。困惑からくる恐慌状態に陥りがちだったに安易に同情することなく、厳しく、しかし決して見捨てることなく導き続けたのだ。
意思疎通がなんとか可能になるまで、通じない言葉でひたすら励まし、抱きしめ、その存在のすべてをもってを受け止めてくれた最初の人物。その後、シスターの人となりを知るにつれて素直に敬愛の念が深まっていき、いまではかけがえのない存在になった。絶望がすべて拭い去られたわけではないが、日々をその思いだけで塗り潰し、無為に生きるのはやめようと思いを新たにすることが出来たのはシスターのおかげ。だからは、ここにいる限り、叶う限りシスターのために恩を返そうと決めている。
茶器を配りながらそっとさりげなさを装って視線を流せば、思いがけずばっちり相手と目が合ってしまい、ばつの悪さと恥ずかしさから慌てて「失礼しました」と呟いて顔を伏せる。
「申し訳ありません。この教会は普段は神父さまがいらっしゃらないので、この子は男性に不慣れなのです」
羞恥から血が上り、耳が熱い。きっと真っ赤になっているだろうことは、不躾だった振る舞いを軽く窘めるだけで相手への説明に移ったシスターの揺れる声からも知れる。きっと、言葉よりも雄弁に自らの行ないを恥じていることが伝わっているのだろう。別に男性が苦手というわけでもなかったが、そうシスターに思われても仕方のないこれまでの行動の数々を思えば、あえて否定の声を上げる気にはなれなかった。
「、こちらの方々はヴァチカンからおいでになった神父さまと修道士さまです。我らのように祈りを捧げるのみならず、こうして旅をしては各地で起きている奇怪な現象を解明し、人々の心に平穏をもたらしておいでです」
客人に茶を供するためだけに呼ばれたのかと思いきや、シスターはに同席を命じた。顔を伏せたまま黙ってシスターの背後に回ったは、続けて自分に向けられた声にそっと、今度こそ慎重に、地面から辿って相手の胸の辺りで視線を止める。黒地に銀のボタンがあしらわれた意匠は確かに一般の教会関係者のものとは一線を画している感があるが、左胸に縫い取られた薔薇十字が彼らの所属を高らかに謳いあげていた。多少の違いはあれど、十字架を掲げるものはみな同じ神の信徒だとは、この一年で叩き込まれた感覚のひとつである。
警察や病院の機能の一端を宗教関係者が担っているのは実に興味深いとは思う。あくまで一端であり、主要でないことが重要な点だ。他の町を知らないからなんともいえないが、少なくともが身を寄せる町において、人々は自分たちの手に負えること、負えないことをしっかりわかっている。
自分たちで何とかできることは極力自力で解決し、どうにもならないことは神に祈る。非現実的といえばそれまでだが、己の領分を明らかにし、その中で精一杯、慎ましやかに生きている姿は素直に美しい。立ち向かうことなどできない不可思議の壁によって世界を切り崩されたにとって、その生き方は心の平安を求めるのに最適な手段に思えたのだ。
「あなたがこの町に至った経緯を、お聞きになりたいのだそうです」
お茶をどうぞ、と。一向に茶器に目を向けようとさえしない黒衣の聖職者たちに勧めてから、シスターは傍らに佇むを振り返る。
「このところ、近隣の町で行方不明者が多数出ていることは知っていますね? その一環の怪異に、あなたも巻き込まれたのではないかと神父さま方はお考えです」
「ぜひ、協力していただきたい」
シスターの説明を追いかけるように口を開いたのは、小柄な老人だった。
目許に黒く縁取りをしていることに多少の不審を感じただったが、その声は深く真摯で、思い込みだけで相手を疑った己を恥じ入る。
「お勤めは結構ですので、あなたは神父さま方にできうる限りのご協力をなさい。ことによっては、故郷に帰ることができるかもしれませんよ」
やわらかく促す声にほんの一瞬だけ表情が歪んだのは、どうしようもないことだろう。あんなに摩訶不思議なことに巻き込まれたというのに、ここには魔法も奇跡も存在しない。信じがたいことに時代錯誤な空間に降り立ってしまったようだが、それでもここはどこまでも現実。
空を飛ぶほうきはないし、ランプに精霊は棲んでいない。呪文を唱えても火は熾きないし、神の声さえ聞こえない。時間だとか空間だとか、そういったものを飛び越えるのに必要な条件はどこにもない。安易な希望を抱くには、は現実を科学的に捉える感覚に染まりすぎていた。
「わかりました。私にできることでしたら、何なりと」
問には答えよう。求められるなら応じよう。それがシスターの望むことなら、はそのとおりにふるまいたいと思う。平静を装った声音は、思ったよりも自然に紡ぎ出せた。答に心底嬉しそうに、誇らしそうに微笑むシスターの横顔を見て、それこそが慰めであり喜びであるとは感じる。
ただ、胸の内でだけ考える。きっと自分は還れない。あの不可思議をもう一度起こすには、人の領域にはない不可思議に手を伸ばすしか方法がないのだ。
そのまま席を外したシスターを見送り、は改めて客人たちへと向き直って頭を垂れた。
「はじめまして、神父さま、修道士さま。こちらの教会でお世話になっています。と申します」
「ご丁寧に痛み入る。突然のことで、さぞや驚かれたことだろう。私はブックマン、この赤いのはラビという」
「そんなガチガチになんなくていいぜ? 見た感じ、年も近そうだしさ。気軽に、な」
ブックマンとはまた不思議な名だと、紹介を受けて小首を傾げながらもはゆるりと会釈を重ねる。隣にいたのは背の高い赤毛の青年であり、指摘のとおりとそう年齢も変わらないように見受けられた。にかっと笑うその表情は快活で、ブックマンが静ならラビは動といったところか。でこぼこながらも逆にそこがしっくりくる二人組だった。
「さっそくで申し訳ないが、お主は気づけばこの近隣にいたと聞いた。何の前触れもなく、唐突に場所を移動していたと。それはまことか?」
自己紹介のために腰を上げたまま問いかけてきたブックマンに、は着席を勧めてから湯気の立たなくなってしまったカップへと視線を流す。
「まずは、お茶を淹れなおしましょう。冷めたお茶をお客さまにお出ししたとあっては、この教会の品位が疑われます。少しお待ちいただけますか?」
問いかけるにブックマンはじっと視線を投げかけてから、何かを飲み込むようにして「頼もう」と承諾を返す。手早く茶器をまとめて扉をくぐり、廻廊に出たところでは気取られないように息を吐く。事情の説明は、言葉が通じない頃から何度も繰り返してきた。それによって説明は要点を押さえたものができるようになってきたと思うが、沸き起こる痛みに変わりはない。
ここは見知らぬ場所。ここはありえない場所。そして自分は帰れない迷い人。事実が厳然と壁となり枷となり存在することを確認するのは、耐え難い自傷行為に他ならないのだ。
茶と茶請けを調達して再度部屋に戻ったは、音を立てないよう気を配りながら茶器をテーブルに置く。いったいヴァチカンとやらがどれほどの地位と権力を持っているかは知らないが、きっと田舎町にある教会の居候からすれば雲上人もいいところなのだろう。そう考えて先ほど以上に丁寧に淹れた紅茶はとても良い香りを放っていたが、彼らの興味はあくまでの話の内容にあるらしい。
自分の茶器を置き、が腰を落ち着けるのを待ち構えていたようにブックマンが先の言葉を繰り返す。
「お主、この町にどこからか“跳ばされて”きたというのはまことか?」
「……荒唐無稽な話ですので、信じがたいとは思いますが」
カップに伸ばしかけた手を膝の上で握りなおし、は溜め息交じりに肯定を返した。自分でも、そんな馬鹿なとしか言いようのない事態だったが、それが事実なのだからいかんともしがたい。だが、ブックマンもラビも、馬鹿にしたり不審に思うそぶりは見せずに詳しく話せと重ねて請う。
ヴァチカンの聖職者さまは、よほど心が広くできているのだろう。珍獣扱いされるのはごめんこうむりたかったが、シスターの口添えもある以上に断る術はない。ひとつ息をついてから紅茶で口を湿らせ、いまだに自分でも信じられずにいる記憶をはゆっくりと掘り起こした。
Fin.