朔夜のうさぎは夢を見る

遠き日のこと

 寒い、寒い、寒いと。最近になって朝夕が冷えるようになり、蒸し蒸しとした夏からようやく解放されたことを喜んだのも束の間。蒲柳の質を持つ主が、寒い、寒いと不満をこぼすようになった。
 とはいえ、まだ冬と呼ぶには暖かに過ぎ、今から衣を厚くしたり、火桶を出していては本格的に冬が訪れた折り、何をすることもできなくなってしまう。
 しかしながら我慢するようにと告げるには、相手はあまりに体が弱く。
 しばし考えた末、彼女が持ち出したのは大きな桶がひとつ。
「こちらに、おいでくださいな」
 今日も今日とて同じ言葉を繰り返されるのだろうと、先んじて用立てておいたそれを庭へと続く階に器用に置いて、彼女は凛と冴えた空気に外に出ることを渋る主を、呼び立てる。


 もっともっと、古き良き知恵を知っておきたかった。
 もっとずっと、この人にいろいろなものを齎したいのに。差し出したいのに。
 足りないことに歯噛みして、もっと、もっとと身も心も焦がされる。
 けれどそれは嫌な衝動ではなくて、例えば体の芯からほっくりと四肢の先にまで浸透するあたたかな伝播。波動。やさしい束縛。


 物珍しげに足元を見つめている姿はなんだか微笑ましい。
「ぬるくなったら言ってくださいね」
 時折り指を浸して湯が冷めていないかを確認しながら、彼女はゆるりと主を振り仰いだ。
「温酒も用意いたしましたので、寝酒にはちょうど、心地良いくらいになっておりましょう」
「……やけに、気の回ることだな?」
「おかしいですか?」
「いや、ただ、」
 ただ、これが夢ではなければいいのだと。それは、言霊が力を持つことを恐れるがため、決して唇を割りはしない心の叫び。
 春の夜の夢のごときこの日々を、どうか、絶対の現実に。
 胸をつく衝動を噛み締めてわずか眼差しを伏せる青年が、彼女の切ない微笑みに、気づくのはまだ先のこと。



(それは、遠い日の知恵)
(連綿と、脈々と)
(やがて喪われる、遠い遠い日の思いやり)

Fin.

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