墨衣と紅き雨
笑いながら告げられたその瞬間、背筋を貫いた痛みを何と呼ぶのか。定義を見つけ出すのに、少年はいささかの時間を要した。
永劫などないのだと。不変など幻想なのだと。すべては揺らぎ流転し、やがては磨り減って消えていくのだと。わかっていたはずなのに、知っていたはずなのに、痛いほど身に刻んだはずなのに。それなのに、心のどこかで「大丈夫だろう」と甘えていた。
生きとし生けるものがいずれは経験する絶対の喪失。それを経て辿り着いたこの世界で、もはや同じものに怯えることはないと思っていた。
ただ前を向き、ひたむきに時間を刻んでいたあの頃。
すべてを喪い、再び得て、単調に時間を刻んでいる今。
日番谷を取り巻く時間の流れは、かつてに比べてひどく緩やかだ。あまりに緩慢なそれに、ものごとは変化するのだと、世界をあまねく取り仕切る理を忘れるほどに。
つい先日、目の前に座る幼馴染の背中を見送ることによって思い出したはずだったのに、性懲りもなくまた忘れていたのだ。
それでね、と息を継ぎ、身振り手振りを交えながら語る少女の表情は、これでもかというほど輝いている。
「あれから私たちがどうしているか気になった、っておっしゃって、わざわざ学院までいらしてくださったの!」
死にかけたというのに、絶対の喪失の淵に立たされたというのに。雛森は、恐怖も絶望も持ち帰っては来なかった。その代わりに彼女に刻まれたのは、かつてないほどの希望と向上心と、果てしない憧憬と思慕の情。
話すうちにそのときの興奮が甦ってきたのか、卓から身を乗り出すようにして雛森はまくしたてる。
「護廷十三隊の隊長職って、本当にお忙しいの! 先生も凄くびっくりしていたし、だから余計に、これはとっても名誉なことなんだよって」
そこまでを一気に言い切ると、雛森は浮かしかけていた腰をすとんと落とした。何を見るともなく上向けられた視線が追っているのは、記憶の中に辿る例の隊長の頭の位置だろう。妙に潤んだ瞳で虚空を見つめ、ほおっと唇を割った吐息は艶めいていている。
少女の表情は、少年が今まで見たことのない類のもので、少年が今までに見た中で一番美しいものだった。
「――あたし、早く死神になりたい」
ゆうるりと瞬いて、雛森は静かに呟いた。
「早く死神になって、藍染隊長のお役に立ちたいの」
それまでとは打って変わり、静謐な空気を湛えた、決して大きいとはいえない声だった。誰かに聞かせるためのものではない、独り言めいた科白。あまりにすべらかに紡がれた様から、日番谷はその言葉が、今まで何度となく彼女の内に外に、繰り返されてきたものだと推し量る。そして、そこに滲む意志の固さを。
湯飲みからすっかり冷め切ってしまった茶を口に含むと、思いのほか喉が渇いていたことに気づかされた。勢いに飲まれるようにして話を聞く内に、知らず緊張していたらしい。らしくもないと自嘲気味な笑みを口の端に乗せ、日番谷は沈黙を破る。
「死神になったら、危ないことも増えるんだろ?」
「だから強くなるの。隊長のお役に立てるぐらい、強く」
心配してくれているんだね。ありがとう。
何もかもを見透かしたように、いたずらっぽい口調を装って返してくる雛森は日番谷の知っているかつての姿で、でも、真っ先に返された言葉は知らない一面を映すものだった。
止めても無駄なのだ。
あの日、少年の頭をひとつ撫でて走り去っていった背中が、『藍染隊長』に向けられることはないだろう。穏やかに微笑む雛森を見やりながら、日番谷はぼんやりと思い出す。たおやかな外見とほのぼのとした空気の持ち主のくせに、こうと決めたら決して翻さない。雛森は昔から、高潔な気性の持ち主だったと。
このままでは本当に、二度と手が届かなくなる。漠然と、しかし確信をもって、少年は少女の見据える道を悟る。彼女は、彼の知っている世界を飛び出して、その向こうを己のあるべき場所と定めてしまった。ならば、日番谷が取るべき道はただひとつ。
「なあ雛森。お前が使ってた本、まだ残ってるか?」
両手で茶碗を支え持ち、行儀よく中身をすすっていた雛森は、唐突かつあいまいな問いかけにちょこんと小首を傾げた。大層な決意を訥々と語るくせに、その仕草は微笑ましいほどにあどけない。こんなにも彼女は自分の知るままなのに、どこまでも知らない姿へと変わっていく。
じくじくと胸が痛み、何かに急かされるような感覚が不快だった。あえて呼びかけに姓を使ったのは、世界を違えた雛森を自覚するためであり、それでも今までと何も変わらないと笑う少女への八つ当たり。
「入試の勉強に使ってた本だよ」
「家にあると思うけど」
いったい何を言い出すのかと、雛森は瞬きを繰り返す。頬杖をついてあさっての方向を向きながらも横目だけ流し、日番谷はぶすりと答えた。
「俺もそこ入る」
「えっ? ええっ!?」
「なんだよ。俺が入っちゃ悪ぃのかよ?」
「そうじゃないけど! でも、だってあんなに嫌がってたのに」
ひとりでわたわたと百面相を披露している雛森から視線を引き剥がし、日番谷は呟く。
「お前は死神になって、もっと先に進むんだろ?」
「うん」
あっさりと、しかし力強く返された首肯に、少年は不敵な笑みを取り繕う。
「本当にできるか、俺が見極めてやるよ」
意地悪い声音を意識して言ってやれば、雛森は案の定、眉を立てて非難の言葉をまくしたててきた。
耳元でわめく雛森にばれないよう吐き出した息は、小さくも重い。
胸の奥に巣食うのは底知れぬ恐怖心。今までも、彼女を取り巻くすべての変化がただ漠然と怖かった。だから自分はせめて変わるまいとしていたのに、そこに突きつけられたのは、最も恐るべき変化の可能性。
このままでは、自分のあずかり知らぬところで、その存在を刈り取られてしまうかもしれない。それはひとえに、彼女の追うものがある世界に、自分がいないがために。
――現世の実習でね、巨大虚に襲われて、すごく危なかったの。
あっさりと笑いながら告げられた今回は、たまたま運が良かっただけだ。その危険性よりも恐怖よりも、助けに現れた五番隊長への思いを無邪気に語る雛森は、気づかなかったろう。鼓膜に届いた単語に、日番谷の脳裏を血色の雨がよぎったことになど。
翻されることのない決意と、揺るぐことのない眼差し。それは雛森のものだけではない。
いつから胸にあるかは忘れた。ただ、雛森は自分が守ると決めた。人一倍優しくて泣き虫で、いつも誰かのためを思って己を省みない姿に、ならば自分が雛森を省みて、雛森を害するすべてから守ろうと思ったのだ。だというのに、今の日番谷は雛森を喪う可能性を排する術を、一切持っていない。
「俺が、護ってやるよ」
呟いた声は、雛森には届いていない。届かせる気も教える気も、日番谷にはさらさらない。自分だけがわかっていればいい、それは自己満足ともいえる誓約にして制約。
つまらない意地など捨てよう。雛森の血が雨と降るその幻想に怯えるぐらいなら、忌み嫌った墨染めの袖に腕を通し、己が身を盾と、傘とすればいい。しっかと形をなした覚悟に満足し、少年の唇は密かに笑みを刻んだ。
紅雨に惑うたその日、墨衣を纏い緋色の雨を浴びる覚悟を決めた。
Fin.