朔夜のうさぎは夢を見る

蒼穹に立ち

 興味深げな表情をまるで隠そうともせず、子供は広がる世界を見渡していた。
「――臆さぬのか?」
 目の前に姿を現し、簡潔に問えば低い笑声が返る。見下ろした顔はわずかに俯いていたため、表情をつぶさに観察することは叶わない。それでも、口元に浮かぶ不遜ともいえる笑みは見てとれた。
「怯える必要があるか? 俺はお前に会いたかったんだ」
 お前は斬魄刀で、ここはお前の世界ってやつなんじゃないのか。語尾は疑問の形だったが、口調には疑念など一片も滲んでいない。茫洋たる雪原の中、人ならざる存在と対峙していることへの感慨すら、微塵も抱いていないらしい。子供の言葉は正しくはなかったが、あえて否定しようとも思わなかった。この世界がそれの世界になる可能性が、ないとは言い切れないのだから。
 あてもなく地平線へと投げ出されていた視線が、しばしの時をおいてようやく上向けられる。
「綺麗だな」
 瞬きひとつを経て、ぽつりと呟かれた声は素っ気無い。だがその分、何よりも真摯だった。
 怯えることなくただ己を美しいと讃え、揺らぐことなく静謐な世界を湛える子供。
 相見えての第一印象は悪くないと、それは透き通る瞳をほんのり和らげた。


 永い間待ち焦がれた中、ようやく呼ぶ声が聞こえた。応えて対峙してみた相手が子供だったことなど問題ではない。それが思うはただひとつ。果たしてこの死神が、己を御すのに相応しい存在なのかということだけだ。
「お前の力を借りたい。名を明かしてはもらえないか?」
 沈黙を破り、子供がゆっくりと口を開いた。
「なれば我に示せ」
 長大な身をくねらせ、それは子供の視点にあわせて下げていた頭をもたげると、上空から威圧的に見下ろし、天と地とを震わせる声を放つ。
「お前は、何をもって我が力を得る代価とする?」
 力を欲する理由も目的も、それにとって関心の対象ではなかった。ただ、それは力を欲する相手に問う。払われる犠牲なく得られるものはまやかしでしかなく、淡く消えゆくだけのもの。
 強大な力を自認すればこそ、それは相手に覚悟と責任と誠意を求める。己から奪うに値するものを差し出し、その内にある思いの丈を示せと要求するのだ。
 ぐっと眉間にしわを寄せ、難しい表情でそれを見やっていた子供は、しかし。しばしの黙考の後、返答になっていない言葉を放ってきた。
「それは、お前にとって価値ある問いなのか?」


 まるで予想の範囲になかった反応に、思わずそれが「私の力は要らぬのか?」と問い直せば、「ひねくれたこと言うなよ」とぼやく苦々しげな声を投げ返される。
「そうじゃなくて、その質問は無意味だって言いたいんだよ」
 含むところの多分にありそうな返答に、無言のままそれが視線で続きを促せば、子供は剣呑な表情に悔しげな色合いを滲ませて続ける。
「お前の力は、俺の比にならないぐらいでかい。差し出せるものなんて思いつかねえ」
 相対しただけでそれの持つ力の大きさを正しく察しながら、媚びる色合いも恐れる色合いもまるで見せない死神ははじめてだった。意識的にか無意識的にか、その言動のすべてをもって愉悦と興とをそれに植えつける子供は、実に不機嫌そうに眉間のしわを増やす。
「言いたいことははっきり言えよ。お前は代価が欲しいんじゃなくて、納得できるだけの理由と、そこに伴う覚悟が聞きたいんだろ?」
 力を貸す立場として、その要求は当然だろう。まして、強大な力の持ち主ならなおのこと。ならば、はじめから素直にそう言えばいい。
 首を大きく仰け反らせねばそれに視点のあわせられない子供は、体の小ささを感じさせないほどの堂々たる気迫をもって仁王立ち、ふてぶてしくそれに説教を垂れた。


「世界の均衡を守り、虚に襲われる魂を救う――。あいにく俺は、そんな大層なことを第一に考えられるような器じゃねえ。俺にできることがあるんならやろうとは思う。でも、そんなのは二の次だ」
 ひとつ深呼吸を挟み、子供は表情をきりりと引き締める。そして、よく聞けと前おいてからおもむろに口を開くと、『死神とはかくあるべき』と広くのたまわれるその大儀を、微塵の感慨もなくいきなり破り捨てた。
 仮にも斬魄刀の名を問う過程において、あまりに型破りな言動がどこまで続くか。純粋に興味深く先を待つそれに続けて告げられたのは、些細な願い。
「護りたいやつがひとりいる。それが、お前を欲する理由だ」
 子供の内に漲り、それを惹きつける原動力となったにしては、あまりに小さな理由だった。だが、その小ささを隠そうとも余計な見栄を張ろうともせずに、子供は闇空に浮かぶ巨躯を見据える。
 自己を見つめ、偽らず欺かず有様すべてを認め、そのまま曝け出してくる愚直ともいえるひたむきさ。
 不遜な物言いに不快感はない。綺麗な言葉で飾り立てられた、実のない正義などに興味はない。それが求めているのは、見目麗しい建前ではなく、無様でも真摯な本音なのだ。
 焦がれるものを向けられたことを悟り、それは沸き起こる興奮を覚える。


 射抜くような鋭い光を弾くのは、曇りなきふたつの翡翠。かほどの力強い輝きになら、いつまでも囚われていたいとそれは思う。
「俺を信じろ」
 凛と、子供は声を張った。
「会ったばかりで互いの本質を見極めるなんてできるわけがねえ。だけど俺を信じて、その力を貸してくれ」
「我の信用を裏切らぬ自信があるのか?」
「んなもん、わかんねえよ」
 お前が俺の何を信じてくれるかなんて、俺にはわからないんだから。わずかに苦笑しながらの言葉は軽やかに告げられたが、眼差しはいたって真剣なままそれに注がれている。
「代わりに誓う。俺がお前の信用を失ったその暁には、俺という存在のすべてをお前になげうとう」
「魂魄をも含むぞ?」
「当然」
 試すように問いを重ねても、子供は不敵に見返すだけだった。
 凄絶な笑みを高潔なものへと彩る濁りのない双眸は美しい。それこそ存在すべてをもって示される覚悟の深さを汲み、それは子供の心根を認める。


 広がる雪原。凍てついた樹海。闇空に浮かぶ銀鏡。
 世界は、それが棲まうためにあつらえられたかのようだった。内なる世界は、その死神の性状を現す。己の名に呼応するようなそこへと改めて視線を転じ、それは納得する。彼こそが、己の使い手なのだと。
「俺はお前の信用と力を預かり受ける。代わりに、俺の信頼と存在をお前に預ける」
「信じよう」
 契約の文言は紡がれた。子供と己とを繋ぐ不可視の鎖が全身を縛り上げ世界に広がるのを、それは静かに受け止める。
 すべてが納まるべきところに納まったような、心地良い束縛。永く時をさまよってきた中でも最上の喜悦に身を委ね、氷の鱗を纏う蒼龍は求められるままにその名を放つ。かぶせるようにして同時に音を刻むのは、幼さを残すわずかに高い声。
「氷輪丸」
 呼んだ子供は誇らしげに笑み、呼ばれた龍は歓喜の咆哮を上げる。


 そして、龍の蒼氷の瞳に、宝玉を融かした翠緑が宿った。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。