主観的な三角形
日番谷は、見かけの年齢に反してやけに老成しており、経験の浅さに反して仕事の要領の良い、実にできた上司だった。はじめの内こそ書類の処理の仕方について松本に問うことも少なくなかったが、一度教えれば二度目の質問はなく、任官から十日を数えるころには新任の隊長であるという事実をうっかり忘れそうなほど板についた立ち居振る舞いを見せるようになった。
「あっ! 副隊長!!」
「どうかしたの?」
「あの、隊長がどこにもいらっしゃらなくて」
朝一ではじめたはずなのにいつの間にやら延びていた副隊長格の会合から戻ってみれば、詰所内がざわついている。ここ一月ほどですっかり見慣れた光景に軽い頭痛を覚えながら問いかければ、思ったとおりの答えと、部下たちからの縋るような視線。
「わかったわ。書類があったら執務室まで。私が代わりに見るから」
板についた仕事ぶりと同時に、しかし。日番谷は実に見事な放浪癖を見せつけてくれるようになったのだ。
いないとは聞いていたが一応の伺いを立て、たっぷり一分を待ってから返事がないことにため息をつき、からりと戸を引く。入って左手奥の隊長用の机に人影はなく、いつもなら椅子の背にかけられているはずの氷輪丸も見当たらなかった。
手前にある松本の机の上には、書類は済んだから午後は見回りに出てくるとの置き書き。きちんと整頓された彼の机の上には、処理済の書類が種類別に分類されており、確認を頼む旨と問題がなかった場合はそれぞれ必要な部署に届けてくれるよう、との一筆が添えられている。
「特に不備は見当たらないけれど……」
ばらりとめくってざっと目を通す。副隊長職についてからの年数は長く、こういった事務処理能力は嫌でも磨かれている。これまでの日番谷の仕事ぶりからいって、誤字脱字といったミスはないだろうから、署名と判が必要な箇所を大まかに確認するだけの作業だし、それならばさほどの時間もかからない。
他隊に回す書類から優先的に確認し、詰所からやってくる隊員たちに少しずつ運搬を頼めば、三十分もしないうちに日番谷の机の上は綺麗に片付いた。
さて、と一息ついてから自分の机に向かい、松本はまず山積みにされている書類の分類に取り掛かる。重要度が高く期日の近いものから片付けるためのその作業は、途中で無意識にこぼれた大きなため息に遮られる。
先ほどのチェックの段階で勘付いてはいたが、しかし、改めて認識してみると思うところが多々あるものだ。松本が処理するべきだった日番谷の署名やら判やらの必要な書類は、ことごとく抜き取られ、どうやら既に片付けられているようだった。
主のいない空っぽの椅子を見やり、松本はつらつらと物思いに耽る。
日番谷にとって、この部屋は、この隊舎は、もしかして居心地の悪い場所なのだろうか。執務室で松本と共に書類業務に明け暮れることは不本意であり、隊員たちと接触するのは不愉快なのだろうか。
答えを聞きたくても、まだ松本は日番谷との距離をそんな質問をさらりとできるほど縮められたとは感じられないし、何より、予測のつかない返答を聞くのが怖かった。
仕事が残されていないから、彼が就業時刻内に帰ってくるかもわからない。
仕事が完璧だから、探しに、呼びに行くちっぽけな理由さえ手に入らない。
己をはじめ、隊員たちから向けられる惑いと不信、そして無意識の内にその挙動のひとつひとつを値踏みするような視線のむしろにいるのは、きっとこの上ない苦痛だろう。
どうにかせねばと思い、されどもどうにもできずにいるのは多分お互いさまだ。
見かけで判じてはいけないとわかっているが、見かけに惑わされるのは視覚を持って生きているが故の業。そしてそれは松本たちの側からの単なる言い訳に過ぎず、日番谷にとって不快だろうという事実には微塵の変化もないはずだ。
彼はもしかして、そんな煮え切らない自分たちの傍にいるのが嫌だから、さっさと仕事を片付けてはふらりと姿をくらますのかもしれない。隊舎に集う誰もが見つめ、頼り、誇るこの部屋の主という立場を、たとえ物理的にだけとはいえ抜け出すのは彼なりの意思表示なのかもしれない。
そう勘繰る自分が哀しく、否定できない現実が悔しく。
勘繰らざるを得ない現状が、松本は切なかった。
一度外に出るとなかなか戻ってこないのが、ただの気紛れではないらしい恒常的な癖と察し、探しに出たことがあった。見つけることが敵ったのは、気づいてから八度目のただ一回だけ。慌てて追いついた松本にしかし日番谷は、「気にすることはない」の一言を放ってきた。
副官を連れ歩くのが慣例だと言っても、別々に動いていたほうが仕事の効率がいいと言い返され、さらにはこうして執務室を二人して空にしているほうが不味いだろうとまで言われてしまった。
「何かありゃあ地獄蝶で呼び立てればいい。書類は全部片付けたし、問題は特にないはずだ」
日番谷のセリフはいちいちすべてにおいて正論で、だからこそ松本は返す言葉を持っていなかった。
「任務でいないことだってあるんだし、その延長みたいなもんだ。俺が抜け出した今まで、困ったことはなかったんだろう?」
ならばいいじゃないか。
そう断じる日番谷の口角の歪み方は、笑うというよりも嘲っているような気がして、息を呑んだ瞬間、あっという間に松本は目の前の影を見失っていた。その表情の真意が気になって、気になるものの問いただすことができずついには機を逸してしまって。どうにもならない微妙なぎこちなさを挟んだまま、松本の記憶が正しければ日番谷の放浪は今日で十四度目を数える。
頬杖をついて見やる隊長席の背中にある窓の向こうは、青く高く遠く、見つめている内に溶けてしまいそうだった。戸の向こうに霊圧の揺らぎを感じ、微かな期待と大方の予測をもって息を詰めれば、書類の捺印を乞う隊員の声がある。
「入って」
「はい。失礼します」
丁寧に引き戸を滑らせ、見知った顔の死神が書類を抱えて敷居をまたぐ。受け取り、内容を告げる声を聞き流しながらざっと中身に目を通し、不備がないことを確認して仕上げに必要な判を捺す。慣れ親しんだ作業には淀みがなく、隊員もごく自然に、返された書類を両手で胸に抱え込んだ。
「隊長は新しくいらっしゃいましたけど、前とまったく変わりませんよね」
「え?」
微苦笑を交えてふと思い立ったように口を開いた彼女は、目を見開いて動作を止めてしまった松本にそれこそ驚きを見せ、小首を傾げる。
「はじめは隊長ご自身がお仕事に慣れていらっしゃらなかったから、いまは隊長が執務室にいらっしゃらないから、やっぱり書類はほとんど副隊長にお願いしていますし」
まあ、自分たちが扱うような書類で隊の長である日番谷に直接裁量を仰がねばならないようなものはろくにないから、当然といえば当然なのだが。そう続けてはにかんでから、彼女は「お疲れさまです。頑張ってください」と労いの言葉を添え、入室時と同じくごく丁寧に戸を開けてするりと退室していった。
ろくに音を立てず閉ざされた引き戸をなんとなしに見つめていた松本は、先ほどまで眺めていた窓をもう一度見やり、こめかみを抑えて低く呻く。
「変なところで、子供なんだから」
背もたれに体重を預けて仰け反れば、視界は天井の木目でいっぱいになり、やがて真っ暗に閉ざされる。瞼越しに仄かに透ける光を感じ、脳裏に巡らすのは目の前の書類の期限一覧。
急ぎの書類は既に片付いていて、つい今しがた、何よりも優先すべきだろう事項を思い立った。ならば、それを最優先にしても何の問題もなかろう。
勢いをつけて椅子から立ち上がり、上位席官のみが扱える他隊に届けるべき書類を手にして松本は詰め所へと向かう。
「ちょっと出てくるから、急ぎの書類があったらいま見せてくれない?」
帰りの時刻は保証できず予想できない。唐突な副隊長の発言に呆気に取られながらも、さっと応えてくれる隊員たちは松本の誇りであり、愛しむべき仲間たちだ。一通り目を通し終え、いくらかの指示を残し、松本は颯爽と踵を返す。
「副隊長、どちらへ?」
「勘違いしている子供の目を覚まさせてあげるのよ!」
自信に満ちた妖艶な笑みを浮かべて後ろ手に戸を閉め、やけに張り切った霊圧が廊下を遠ざかるのを隊員たちは唖然と見送る。
「……すごい久しぶり」
誰かがぽつんと呟いた感想を皮切りに、静まり返っていた詰め所内は心地好い喧騒に満たされた。かほどに楽しそうに、心の底から無理なく張り切る松本の姿は、それこそ何十年ぶりかに目にするものだった。それが嬉しくて、くすぐったいやる気の波が伝播していく。
「隊長のお陰、ですかね?」
つい先ほど直接言葉を交わしたばかりの一人の死神が笑い含みに言えば、賛同の声がそこかしこから上がる。いつしかそれは、とんでもないかくれんぼに途中参加した松本を応援する声となっていく。
見えないものを見る力よりも、見えにくいものを見る力のほうが実は得がたいものなのだと、神童はまだ知らずにいる。
Fin.