朔夜のうさぎは夢を見る

千尋の谷

 見回りに歩いては虚を倒し、ふらりふらりと青空を漂う。正確には大地を歩き回っているだけなのだが、頭上に開けた空はどこまでも深く、吸い込まれそうで、まるで空を歩いているかのようなその感触を、日番谷はいたく気に入っていた。
 執務室の椅子は座り心地が良く、長時間座り続けて仕事をこなすのに、席官時代よりも不平は格段に減った。隊員たちは総じて仕事を真面目にこなすし、当初覚悟していたようなあからさまな反発は何もない。副官は、伊達に三十年以上もの長きにわたって隊長位の空いている隊をまとめあげてきたわけではなく、文句のつけどころもなく優秀だった。
 何もかもが完璧で、欠けたる部分がないのだ。新参者の日番谷など、入り込む隙がないほどに。


 気づかぬうちに肺に溜まり込んでいた空気を吐き出し、日番谷は大きく肩を落とした。
 何事にも力を入れすぎてしまうのは悪い癖だと、任官時に祝いの言葉とともに幼馴染から助言を受けた。もっと力を抜いていないと、本人もそうだろうが、周りが疲れてしまう、と。そのときは「うるせえ」の一言で片付けたが、最近、少しは力の抜き方を覚えるべきなのかもしれないとしみじみ実感する。
 気を張って力を入れて、必死になり続けているのには気力も体力も山のように必要なのだ。こうして執務室を抜け出すのが癖になったのも、実を言えば息の抜き方がわからないがゆえの苦肉の策だった。
 担当区域に散っている死神たちは、日番谷を見ると一様に驚き、慌てた様子と困惑した様子を同時に見せて一礼を送ってくる。流魂街の見回りは、基本的に下位から中位の席官を頭に据えた小さな班で行われる。わざわざ上位の、あまつさえ隊長・副隊長格が足を向けるような場所ではないから、彼らの驚きはもっともだった。
 通り過ぎた背中から注がれる視線は、羽織に染め抜かれた一文字に集積されている。ひそひそと交わされる言葉から、その一文字が『十』であることによりはじめて日番谷を自隊の隊長と認識したことが知れる。真っ先に示す礼節は、彼らにとって羽織を纏う相手に向けるべきものなのであり、己の上司と知ってのものではない。
(そういえば、新しく隊長が就任したって、松本副隊長が)
(じゃあ、あれが新しい隊長か。副隊長は一緒じゃないのか?)
(報告書、今度からどうするんだろ?)
(副隊長に聞けばいいさ)
 こうして霊圧を抑えて動き回るところに、加えて羽織を脱いでいたら彼らはいったいどういった反応を示すのか。興味はあったが、いたずらに関係を悪化させる要因は作りたくないから、思いはすべて喉奥で殺される。遠ざかる声は、あくまで日番谷の負う十の一文字を通して、松本を見ているのだ。
 かけられる挨拶に短く言葉を返しながら、所在無く、日番谷はふらりふらりとさ迷い歩く。



 背に負う羽織が重い。
 覚悟が甘かったわけではない。隊員の命を預かるこの地位を軽んじて考えたことはなかった。死神の目指す至高のひとつである卍解を修得し、隊首試験へと推され、望み望まれて得たはずの羽織が、しかし。いまは鬱陶しくて仕方がなかった。
 前任の十番隊長の人相など、興味もなかったため知りはしないが、子供のなりをしていなかったのは確かだろう。だから、不安をない交ぜにされた視線を向けられるのも、本当に大丈夫だろうかと、値踏みに等しい噂を交わされるのも、どうしようもないことだと割り切っていた。
 ただ、己の目前で当然のように織り成される、お前などいなくても十二分に機能していけるのだと無言で語りかける光景に、日番谷はどうしても我慢がならない。彼らが欲していたのは己の存在ではなく、羽織を被せる対象であり、隊長という立場を動かすだけの人形だったのか。そう勘繰ったとたん、すべてが色褪せてしまったのだ。
 子供じみた理屈だとわかっている。それらすべての思いを覆し、隊員たちの信頼を自らの力で勝ち取るべきであることもわかっている。だが、いままでの経験と、向けられる取り繕ったような表情と、自分を蚊帳の外において展開される日常とに己が抱いてしまった不信感こそが、拭いきれないものになっていることを日番谷は悟った。
 積もり積もった鬱積は、もはや制御不能な段階の一歩手前まで来てしまっているのだ。


 慣れているつもりだったのに。そう声に出さず呟いて、日番谷は空の色に時間を察し、瀞霊廷へと足を向けた。
 抑えきれない苛立ちは、霊圧を不安定に揺らす。己の力量を正確に把握していればこそ、それは詰め所にいる隊員たちに良からぬことだろうと思った。やり場のない思いは刃の切っ先に篭めればいいと、見回りを兼ねて詰め所を離れ、ついでに自分の知らない場所での十番隊の光景を直接知ることで、何らかの打開策を見つけられればと思った。
 今日で一通り、隊舎に日帰りできる距離にある担当区域は見終わったが、答は結局見つからない。ただ、松本乱菊という存在の大きさを思い知り、自らの覚悟や矜持を含めたすべてを覆わんばかりの、羽織の力を思い知っただけだった。
「統学院の頃と、何も変わらねえか」
 願いは叶えられた。守りたいと、切に祈った相手はもはや日番谷の力などなくても十分にその身を守り、さらには彼女が守りたいと欲した相手を守れるだけの力を得た。ならば、思うことはもはやない。与えられた職務を、来たるべき日まで全うするだけだ。いずれ来たる、松本が日番谷の纏う羽織を得られる力を持つ日まで。


 隊首試験を受ける頃までは律儀に相手をしていてくれた氷輪丸が、最近は独り言に応えてくれなくなった。無駄に背を揺らし、鍔と鞘口の触れ合うかちゃりという音だけを伴に、日番谷は口の端を歪める。お前もこんなやつが使い手ではつまらなかろうが、自分とてこの上なく退屈で仕方ないのだ、と。
 昇るだけ昇り詰めた。強いて次の段階を挙げるとすれば、あとは総隊長位ぐらいなもの。だが、それを目指すだけの覇気は、もはや日番谷に残されていない。
 はじめは雛森を守りたいだけだった。だが、己の力を知れば知るほど、知らず欲は深まった。元来の真面目で義理堅い性格ゆえだったのだろう。誰かのために力を振るうことは心地よく、己が世界の歯車の一部となっている実感に満たされていた。
 さらに、さらに上に。
 外見を裏切る力と能力とを遺憾なく発揮できる場所を求めて、日番谷は異例の速さで走り続けた。そうして現在の地位にたどり着くまでに被ったものは少なくなかったが、それすらをも糧とするだけの力が、いままでの日番谷には確かに備わっていたのだ。


 いつの間にかより濃い朱色に染まっていた空の下、目の前に長く伸びた影に逃げられながら、つらつらと思いを巡らせる。過去を振り返って懐かしむようでは、まだまだ若いつもりでいたが、自分も大概年寄りだと、くだらないことまで考える。意味をなさない単調な懐古は疲れている証拠だ。日番谷は小さく吐息を落とす。
 思考を割くべきは過去ではなく現在から未来へと続く時間について、だ。他の隊長たちが日頃どんな振る舞いを見せているのかは知らないが、必要以上に執務室を抜け出すのは、隊長としてあまり好ましくない姿勢だろう。先日、追いかけてきた松本のことは屁理屈をこねて追い返したが、ある意味現状から逃げているという自覚がある分、多少後ろめたいのが本心だった。
 いい加減に腹を決め、己の取るべき姿勢を固定せねばなるまい。
 隊員が皆そうと望むなら、応えるのが隊長の役目というものだろう。ならば自分は、松本が昇り詰めるまでの繋ぎであればいい。人形扱いには慣れている。存分に、隊長という面倒なくせに必要不可欠な、この厄介な地位を埋めておくための傀儡となってやろうではないか。
 すとんと胸の奥に収まった考えに、日番谷は小さく笑った。役目を終えた暁には、いっそ死神自体を辞するのもいいだろう。史上最年少で隊長となり、史上最年少でその職を蹴る。あらゆる意味で、型破りな自分にはちょうどいいではないか。
 くつくつと、低く零れる笑声を噛んで足を運べば、心が自然と凪いでいく。力を持つことにより敵うたくさんのことを知り、己のようなものが力を持つがゆえに適わぬことがやはりたくさんあることを知った。ならば叶わぬことは望まなければいいだけなのだと、学んだ処世術を反芻し、子供はうっそり笑い続ける。


 千尋の谷から這い上がることを諦めた獅子は、鎖された光にただ自らを嗤った。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。