満月
月華の許、鏡合わせの一対の舞手が袖を、扇を翻す姿を底知れぬ慈愛と共に見やり、彼は静かに物思いに耽る。
視線をどこに巡らせようとも、そこには彼の大切なものがあった。
愛する妻。愛しき子ら。頼もしき兄弟。慈しむべきその家族。導くべき郎党たち。
何もかもに満たされて、彼は古き歌を思った。欠けたることの、なしと思えば。多くの者が、今や皮肉を交えて引用するその一節を、彼は感慨深く噛み締める。
欠けることなどありはしないと、そう思ったのではあるまい。欠けることなどなければいいのに。きっと、そう祈ったのだ。
欠けたることの、なしと思えば。
鏡合わせのように舞う二人の息子に、なぜそこはかとない悲哀を感じるのだろう。その舞を共に観賞する最愛の総領に、なぜ拭いきれない悲嘆を感じるのだろう。
彼の愛するすべては、黄泉路さえも引き返して、こうして揃っているというのに。
(平清盛)
臥待月
知れば知るほど、見れば見るほど、それは得難い奇跡だった。何もかもに失望し、何もかもを諦めてしまった人。ありとあらゆるものを持っているのに、執着はおろか、ほぼ見向きさえしない人。
それでも微塵の綻びもなく、すべてに完璧に応えて歩くから、ほぼ誰にも、その破綻を気づいてもらえない人。そんな絶望さえ、諦めて受け入れてしまった人。
彼の兄は、そういう人だった。
何がその兄を追い詰めたのかはわからない。彼が物心ついた頃から、兄はそうだった。だから、彼にとって兄はそういう人間で、楽観的な希望には縁がなく、俗な欲望にも縁がなく、かといって禁欲的でもなければ厭世にも沈みきれず、漫然と、ひたすらに、人生という与えられた時間を、無為に過ぎ去っていくばかりなのだと勝手に思っていた。
ゆえに彼は信じられなかったのだ。昼夜を問わず、時間ができれば気まぐれのように出かけるようになった兄の行動も、その行き先が移ろわずに一定であることにも。
けれど、彼はその驚愕を誰かと共有するのはまだ早いことも心得ていた。まだ、あと少し待つべきなのだ。そしてそのためには、手の内を知り尽くした共謀者が足りないことも。
だから彼はいまだ昇らぬ月を待ちながら、いまだ戻らぬ兄を待つ。月明かりに導かれて帰るだろう兄から、輝夜姫との出会いを聞き出すために。
(平重衡)
下弦の月
すよすよと響く孫の寝息に、彼女は静かに笑みを深めた。慌てて姿勢を直そうとした、孫の枕になっている娘にそっと首を振り、優先すべきことを見誤らないように、導く。
己の身になど、いったいどれだけの価値があろうや。
いと尊き血を引くわけでもない。管弦の才に秀でているわけでもない。詩歌も、手蹟も、何もかもが人並み。子を生み育てたことへの誇りはある。世の人々から位階を呼び名と冠されたのも、決して偉大な夫を持ったからだけではないと自負している。
けれど、それはこの目の前の光景を蔑ろにする理由にはならない。
彼女は満ちゆく過程をずっと見てきた。だから、欠けゆく気配も敏感に察せている。少しずつ、しかし確かに。欠けていくものに嘆くばかりの日々において、凡俗な日常とはなんと輝かしいのだろう。
ふと、青空にうっすらと弦月が浮かんでいたことを思い出して、彼女は困惑しきりの娘に微笑んだ。月の沈む頃に、迎えに参りましょう。
きっとその頃には、娘を迎えに、娘だけの月の使者も参ろうゆえに。
(平時子 / 尼御前)
眉月
望月の名を冠し、朔月の対を友とし、十六夜と呼ばれた娘にとって、月の異称はさして気になるものでもなかった。月は満ちて欠ける。けれどそれは地上から離れることのできない自分達が、月の限られた側面しか見ることのできないからであり、月が削れたり膨れたりしているわけではないことを、知っているからだ。
知るということは、とても重要だ。知らなくては、選びとれない。知らないままでは何を判断することもできず、虚偽と真実に線引きをすることもできない。
だから、進むたびに彼女は自分が成長していることを実感していた。知って、知って、そして突き進む。遡り、けれど前に進んでいるのだから。
告白しよう。それでも知ることのできていなかった思いを知ったのは、もうこれで繰り返すことは終わりだと、あとは引き返すことなく時の流れに身を委ねて生きるのだと、そう認められた日のことだった。
知るということは恐ろしい。知れば知るほど、選び取ることの重さがのしかかる。己には選ぶだけの権利などないのだろうと、足が竦む。その恐怖から目を背けて邁進していたのだと思い知ったのは、もう失敗してもやり直せないという絶望に、隠しようのない安堵を覚えたからだった。
(春日望美 / 源氏の神子)