朔夜のうさぎは夢を見る

きずあとのきず

 その名を呼ぶなと言った彼は、鋭く、触れるだけで切り裂かれそうな視線を向けてきた。
 視線を瞳の向かう先、という形以外で認識できるとしたら、きっと氷のような蒼白さを湛えていたことだろう。指を差し出したなら細く一文字の裂傷が走ってから血が滲み、熱さを感じるほどの冷たさで傷口を凍てつかせるに違いない。
 心を持たない観察者にはとうていそぐわない詩的表現が頭をよぎる。持って回した言い方や軽口の応酬は好きな方だ。よって、言葉を駆使する自身に違和感は覚えない。だが、物騒でいながら凄烈な美しさを知らず語る己には、少なからず驚愕していた。
 もっとも、僅かの思考の白濁は、それこそ蒼白の気迫を滲ませてねめつけてくる相手を見るうち納得に変換される。美人は何をさせても様になるというが、なるほど、目の前の人物こそは殺気にすら見惚れる佳人であった。
 びりびりと空気が震える、麗らかな日差しの差し込む早春の昼下がり。上司から聞いた同年のエクソシストを廊下で見かけ、見紛いようのない特徴にその人と確信して声をかけてから、吐く息も凍るような殺気に曝されるまで、実に五分とかからなかった。白のカッターシャツに細身のスラックスのみ。装飾品と辛うじて呼べるのは、腰に佩いた細い剣を吊り下げるためのベルトが一本。その出で立ちはまさに一枚の絵画のように完成されていたが、シンプルな分着こなす人間を選ぶということを、この少年は理解していないだろう。
 自覚なく、惜しげなく。美貌を殺気と眉間のしわで相殺しているのが実にもったいないながら、それさえも美しいのだから罪深い。


 迂闊にも見入っていた自失状態から復活し、ラビは気を取り直して口を開く。
「えーっと、何がいけなかったんさ?」
 僅かに黄味を帯びた肌は上質の陶器を思わせ、揺れる漆黒の髪は絹糸を思わせる。様々な国から人材が集うといえ、そんな特徴を持つ人間は、本部には他に、リー兄妹だけだ。しかも、聞くに長く国を鎖している東の島国の出自らしい。ならば自分たちと違って、ファーストネームは後から紡がれた方だと判断しただけだというのに、なぜこんなにも理不尽で純粋な殺意を向けられるのか。理不尽さにむっとするよりもその苛烈さへの困惑が先立ち、ラビは両手を顔の高さに、なるべく相手を刺激しないよう穏やかに問いを紡ぐ。
「名前、ユーっていうん……」
「その名を口にするなと言った」
 しかし、言い差した言葉は半ばで遮られ、眼光は一層鋭さを増す。気が短いのはすぐに察せたが、僅かに左足を退き、同時に腰の得物を左手で支える構えは見慣れぬながらも剣士のそれと知れる。苛立ちながらも隙なく構える姿勢を称賛すべきか、味方と知れている相手にさえこれほどの敵意を剥き出しにする姿勢に呆れるべきか。
 そういえば、情報源たる室長は、この見知らぬエクソシストをサムライだと言っていた。唯一貿易を許された中国を通じて仄かに聞き知る日本の特徴を示してのものだと思っていたのだが、どうやら本物であるらしい。
 まみえたことのない武器と武術を無闇に相手にするのは好ましくない。周囲の温度を物理的に下げる勢いの相手に圧され、だらだらと流れる冷や汗を拭うことさえできず、ぴしりと固まって強ばった舌を必死の思いで動かす。


 こくりと喉を鳴らし、声が変に掠れていることを自覚しながら、ラビはとりあえずの妥協案を求める。こんなところで話を終わらせる気はないのだ。
「なら、なんて呼べばいいさ?」
「……カンダ」
「それ、ファミリーネームだろ?」
 そんな他人行儀な呼び方をしなくてはならないのかと言外に滲ませれば、それこそ雄弁な視線が黙れと訴える。ここでこれ以上つついても相手の機嫌を損ねるだけだということはわかりきっていたが、かといって大人しく引き下がるラビではない。
 言葉数が少なくそっけないのは、二人を繋ぐ言語に彼が不慣れなためか、元来のものか。おそらく両方が原因だろうと当たりをつけながら、ラビは理由を探ることを決定する。
「そういや、自己紹介まだだった。オレ、ラビっての。ハジメマシテ」
 にっと笑って右手を差し出しても、カンダは無感動にちらりとそれを見やったきり、特に反応を示そうとしない。しかし、この相手はそんなものだろうと踏んでいたラビはめげない。宙に浮かんだ右手の位置はそのまま、言葉を継ぐ。
「パンダじじいにはもう会った? ブックマンっていうんだけどさ、その弟子ね。ジュニアって呼ぶ奴もいるけど、ラビって呼んでくれると嬉しいさ」
「ブックマンにはもうお会いした。弟子がいることも聞いている。お前がそうなのか、ジュニア」
「ラビって呼んでほしいさー。で、自己紹介、してほしいんだけど」
 あえて呼称にアクセントを置いたのは、カンダなりの反撃だったのだろう。それにへらりと苦笑を返し、ラビはわずかに首を落として上目遣いに名をねだる。


「知っているようだったが?」
「コムイから聞いてたんよ。見つけて嬉しかったからつい呼んじまったけど、まだ本人から聞いてないさ」
「………カンダ・ユウ」
「ん。改めてよろしくさ」
 しぶしぶといった空気をびしびし滲ませていたものの、最終的には折れて言い分を呑んでくれた相手の右手を、今度はやや強引に掴み取る。それはカンダとしても予想の範疇だったのか、眉間のしわを一本増やし、大きく上下に振られるがままにして大げさな溜息をひとつこぼすにとどめていた。
 腕の上下運動からの解放を待ち、さっさと振り払って先へ進もうとする相手を縫いとめ、未来のブックマンは鋭い眼光にもめげずに笑顔を返す。
「さっきは悪かった。ユーって呼び方、不愉快だったろ」
「わかっているなら繰り返すな。そして放せ」
「わかっているから謝りたかったんさ。ユーじゃなくて、ユウ、だな。覚えた」
 ぞんざいに腕を振り回して逃れようともがいていたカンダの双眸が、大きく見開かれてラビへと注がれる。突き刺さる視線を気にも留めず、口の中で「ユウ、ユウ」と発音をなぞり、イントネーションを確認してからいたずらっぽくカンダの顔を覗き込む。
「カンダ、は? も少しゆっくり発音してもらえる?」
 ブックマンは歴史を刻む。刻む歴史は国を問わず、それらを正確に記すため、彼らはありとあらゆる国の文化に通じている。そしてそれは、たとえ三百年にわたる鎖国によって情報がほとんど流出していない東国においても同じ。
 鎖されているがゆえに情報は少ないが、あの国は言葉をひどく大切に扱う風土だと聞く。扱う言語が異なったとしても、培われた精神は揺るぐまい。それが名ともなればなおのこと。本人の口から紡がれた名は、ラビが紡いだ音と明らかに一線を画していた。風土と、あとはおそらく思い入れか。それが強いからこそ、正しく音を刻めないままに名を呼ばれるのを忌避したのだろう。そう目星をつけ、ラビはにこやかな表情の裏、己の推測が当たっているか否かを冷淡に観察する。


 笑顔の向こうにある真意を探るように、じっと見据える鋭い視線が不意に逸らされ、薄く形の良い唇がゆるりと動かされる。
「神田、だ」
 刺々しさも訝しさも不機嫌さも、すべてを置き去りにした、ただ静謐な声が厳かに告げる。与えられた音を、やはり数回口の中で転がして記憶に刻み込んだラビを見やり、何を思ったのか神田は「この後時間は空いているか?」と問いかけてきた。
「特に用事はないさ」
「ならば鍛錬に付き合え」
「ならついでにお互いのイノセンスのお披露目会にしようぜ!」
 居丈高な口調が気にならないかと言われればそうでもないが、あまりにもしっくりと馴染んでいる様子にかえって毒気を抜かれ、それが彼の在り方なのだろうとラビはただ受け入れる。踵を鳴らして歩き出した背に続きながら、それにしてもユウは真面目さ、と続ければあからさまに不機嫌そうな一瞥を投げかけられた。口調と表情は取っ付きにくいが、案外わかりやすいと小さく苦笑して、ラビは新しい仲間の隣に並び立つ。
「名前で呼ぶなっつっただろ、ラビ」
 胡散臭そうにラビの笑顔を見やりながらぼそりと落とされた言葉に一瞬絶句し、そして溢れだそうとする笑声を口元を押さえることで必死に押し殺しながらラビは声を絞り出す。
「ユ、ユウってば最高! ホント、オレらもう親友になれる!!」
「だから、ファーストネームを口にするなっ!!」
 結局堪え切れず笑いながら叫べば、不機嫌さを増した怒声が肘と共にラビを襲う。情けない悲鳴をあげてそれを受け止め、感じるのはあくまで本気ではないと知れる程度の手加減と、最初に告げられた時とは微妙に温度を変えた声音。


 告げた言葉に偽りはなかった。本当に、最高の気分だった。
 どこまでも綺麗で、真っ直ぐな人。終わりがあると知っている、死と隣合わせと知っている現在の立ち位置において、それでも失いたくない、かけがえのないと感じられるほど眩しい存在。自覚があるのかないのか、大切なことをきちんと知っている存在。
 じゃれあいというには物騒な遣り取りを交わしつつ廊下を走りながら、ラビは久しぶりに、心の底から笑う。
 神田がラビを『ラビ』と呼ぶから、ラビも神田を『ユウ』と呼ぶ。いつか、ラビが『ラビ』ではなくなっても、どこかで偶然に通りすがった時に、怒声でも罵声でもいいから、神田にこそ『ラビ』と呼んでもらうために。
 名前の意味を知っている人。本当に大切なことをわかっている人。
 だからこそ彼は呼ばれることを厭い、滅多なことでは呼ぼうともしてくれないだろう。それこそが、声をかけた時の容赦ない不満の理由だろう。
 本当は本人からなぜと理由を聞きたかったが、問いかけても求める答を得る前に切り捨てられて終わりだろうことは既に察せる。神田は本当にわかりやすい。だが、それでいい。自覚があっても無くても構わない。ただその姿勢を過たず貫ける彼だから、ラビは彼の隣にいたいと感じたのだ。
 四十九番目の名前は、きっと未来永劫過去永劫、並ぶものがないくらい特別な意味合いを持った名前になる。それが良いか悪いかを判じようとはせずただ事実として胸に刻み、ラビはついに鞘から抜き放たれた黒刃の強襲を、冷や汗つきの満面の笑みでかわしながら走る足に力を篭めた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。