朔夜のうさぎは夢を見る

勿忘草の色

 珍しい場所で珍しい人の珍しい姿を見た。意外さに目を剥き、驚きに息を呑み、受けた衝撃を全身で表現してからリナリーは後ずさる。気配を殺し、呼吸を殺し、獣のような慎重さで一歩ずつ。
 気づかれないように、気づかせないように、細心の注意を払っていたとしても遠慮容赦なくそれを無視してくれるのが神田だ。ようやく方向転換を完了する頃には神田は目を覚ましている様子だったが、覚悟していた背中への声はない。珍しくも相手の出方を探るような気配をみせ、あくまでその場に佇んでいる。扉を閉める際にそっと覗き込んだ先には、いつもと違い、力なく丸められた背が見えるだけだった。


 廊下をゆっくりと進みながら、まとまらない思考にとにかく方向付けだけはしようとリナリーは顎に指を当てる。整理すべき対象は自分が今見たもの。混乱したときには、パターンに当てはめてしまうのが一番手っ取り早い。
 いつ? さきほど。
 どこで? 聖堂で。
 誰が? 神田が。
 何を? 眠っていた。
 どのように? 無防備に。
 ――なぜ?
 多くの疑問点を残しながらもごく機械的に終了するはずだった区画分けは、最後の項目であえなく頓挫した。
 なぜ聖堂になどいたのだろう。なぜ彼がいたのだろう。なぜ眠ってなどいたのだろう。なぜあそこまで無防備だったのだろう。ぐるぐると回るだけの思考回路は一向に答を掴めず、しかし奇妙な既視感がリナリーをその思索に縛りつける。
 いつか、誰かがあそこであのように眠っていた。それはなぜか。それは、あそこに心を委ねられる条件が揃っていたからだ。


 引っかき傷のような不安定さが残る胸を持て余し、リナリーは科学班室へと足を向けた。誰かのぬくもりに触れたかったし、適うならこの感覚を共有できる相手が欲しかった。それには、気心知れた相手の集う不眠不休のかの地獄が最適だった。
 途中、食堂に経由してコーヒーを満たしたポットと軽食を手に入れ、ノックをしてから扉を押せば、案の定そこは疲労と睡魔のはびこる生き地獄だった。
「お疲れさま」
 差し入れだよ。そう言って手の中の荷物を軽く持ち上げれば、そこかしこから疲れの滲む快哉。既に馴染んでしまったその気配から限界がまだ遠いことを察し、リナリーはほっと息を吐いて希望者のカップにコーヒーを注いで歩く。
 あえて後回しにしておいた部屋の最奥にようやく足を向ければ、いそいそと机を片付けている兄と目が合った。配り歩いたため残りが僅かとなった軽食のバスケットを置けるだけのスペースを作っていたのだろう。それと察して遠慮なく書類の山の谷間にバスケットを置き、すっかり茶色が染み付いてしまっているカップにコーヒーを注ぐ。
「お疲れさま、兄さん」
「リナリーの顔を見たら、疲れが癒されたよ」
 目尻を下げてとろけそうな顔をした科学班室長を目に、よく気のつく科学班班長が「キリのいいところで少し休憩入れろよー」と声をあげている。あれは、少しなら休憩していいですよ、という遠回しなメッセージだ。ありがたく厚意に甘えることにして、コムイは常と少し様子の違う妹を見上げる。
「どうかした?」
「……さっきね、神田を見かけて」
「神田くんを?」
 そっと促せば、リナリーはぽつぽつと単語を落としはじめる。


「神田を、聖堂で見かけたの。別に今である必要はなかったんだけど、蝋燭を灯したくて行ったらね、神田が、オルガンの椅子に座って突っ伏してて」
 闇を纏うエクソシストと聖堂とは、恐ろしく似合わない組み合わせだった。誤解を招く言動が多いものの、彼は死者を冒涜するような真似はしない。その上で、自分の言動が周囲からどう捉えられているかを知っているから、神田は聖堂に寄りつこうとしない。
 死者を悼み、神に祈るものが集う場に自分が立ち寄ることなどありえない、似つかわしくないと思われていることを知っている。そんな場でそう思っている人間と鉢合わせれば後が面倒だ。良くも悪くも単純明快な理論に従って生きているらしい青年の行動原理は、そんなところだろう。脳裏に浮かんだ映像から舌打ちの音さえ聞こえてきそうで、コムイは小さく苦笑する。
「聖堂で神田を見かけたことも驚いたんだけど、私が入ったことに気がつかないくらいよく寝ていたことも驚いたの」
 あんな場所で、あんな無防備に寝姿を曝すような性格ではない。過ぎるほどに研ぎ澄まされて張り詰めた彼は、彼の振るう神の結晶のような人。安らぐことを忘れてしまった人だというのに。


 純粋な驚きをもって言葉を紡ぐ声にわずかな引っ掛かりを感じて、コムイは小首を傾げながらカップを机に置く。
「まあ、疲れているんだよ。最近ハードな任務が連続しちゃったし」
 眉尻を下げながらまず返したのは、言い訳に過ぎない状況説明。本人の能力の高さと特異体質に裏打ちされた機動性の高さから、どうしても神田に任務が偏るのは避けられなかった。泣き言のひとつ、弱音のひとつ決して零さないから、ついうっかり甘えてしまう。致し方のない状況に立たされているからこそ、なおのこと。
「でも、だったら部屋で寝ると思うの。なんでわざわざ聖堂なんかに?」
 溜め息交じりの声に、不思議そうな声が続く。引っ掛かりの正体に向き合うことのできたコムイは、妹に正答を与えるべきかヒントを与えるべきか、それとも優しい嘘を与えるべきか、少しだけ悩む。
「――懐かしい夢でも、見たんじゃないかな」
 悩んで、結局すべてを混ぜ合わせたような曖昧な想像を言葉に託せば、察しの良い少女ははっと息を呑んでから痛みを堪えた笑みを無理やり目許に浮かべる。
「そっか。それじゃあしょうがないね」
「そうだね」
 小刻みに震える声が悲しくて、コムイはカップを持ち上げることを口実に視線を机に落とす。いつの間にか冷め切っていたコーヒーは想定していたよりもずっと苦くて、じわりと舌を痺れさせた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。