朧月見上げ
少年は、性格と対人関係の構築においていささか難点が目につき過ぎるものの、総じてよくできた弟子だった。物事を白か黒かという極端な視点で捉えがちな面もあるが、状況判断に優れ、戦闘センス、技術、戦略の立て方は堅実にして秀逸。教団側から指摘されていた適合率の不安定さも特には見られず、一定の経験値さえ積めば、すぐにもエクソシストとしてひとり立ちできるだけの実力を垣間見せている。
戦場を一望できる位置、最前線から少し離れたそこで戦況を見守っていたティエドールは、最後のアクマを一閃した漆黒の刃を見て、小さく嘆息する。それぞれに散っていた兄弟子たちの動向を確認するように首を巡らせ、使い手は刀を納めてふと銀月の耀く天球を振り仰ぐ。
その背は遠く、団服の色と彼自身の髪色もあいまって夜に溶けそうである。それでも凛と揺ぎ無く存在を主張する佇まいに、元帥は過ぎし日に一度だけ言葉を交わした少女の見る目の確かさを、ぼんやりと頭の隅に呼び起こしていた。
舟に揺られて水路を行きながら、ティエドールは目の前にある細い背中に声をかけた。
「外に出たらば駅まで走るけど、ついてこられるかい?」
それは、問いかけという形を持った通達だった。ついてこられると言うならば、決して手は貸さない。途中で置いていくことになろうと、そこまでということだ。逆に、ついてこられないと言うならば担いで連れて行く。エクソシストではない少女に人並み外れた身体能力を期待してはいない。よって、ティエドールとしては後者の答を予測していた。しかし、少女は首から上だけを振り向かせて静かに微笑んだ。
「お気遣いありがとうございます。足手纏いにはなりません」
「そうか。では、手は貸さないよ」
「はい。どうぞ、彼をお願いします」
軽く会釈を送ってくるその仕草は、流れるような優美さにさえ縁取られている。場違いな所作に覚えた微かな苦味を殺して目元を和ませた元帥は、笑みをかたどるよう意識しながら唇を歪めた。
宣言したからには、という思いの反面、エクソシストでない細身の少女の身体能力に疑問を抱いていたティエドールだったが、駅へと走る道すがら、その考えを新たにさせられる。全力で走る背から徐々に遅れはしたが、目的の汽車にはきちんと乗り込んできた。コンパートメントの前でしばらく佇む気配があったのは、弾んだ息を整えていたからか。ノックをしてから扉を開け、上気した頬でそれでもにこりと微笑み、は「追いつきました」と小首を傾げる。
「正直に言って、驚いたよ」
「教団に辿りつくまではそれなりに実戦が多かったので、生き延びるために鍛えられたようなものです」
さらりと言ってのけられた内容は、ティエドールを納得させると同時にその胸に悲しみと痛ましさを落とす。ああ、こんなところにも、千年伯爵によって悲劇に巻き込まれた子供がいる。
「現場までは少しある。座っていなさい」
溜め息ひとつで思いに蓋をし、そのまま廊下に下がろうとした少女を元帥は留める。窺うようにわずかに目を細めてから、は嬉しそうに頷いてその勧めに従った。
目的地までさほどの時間もなかったが、少女は簡単に自己紹介をした後、実に要領よくティエドールが知りたいと思っていた情報を説明した。
件の適合者が東の島国に特有の長刀使いであり、剣技は相当なレベルにあること。不器用で頭の固いところもあるが、状況判断や直感に優れていること。負った傷の治りが早い特異体質であること。適合率が多少不安定であるが、それは実戦経験を積むことによって改善されるだろうというのがヘブラスカとコムイの見立てであること――。
途中でいくつか挟まれたティエドールの質問にもテキパキと答え、お陰で不足していた情報はほとんど埋まったも同然である。その手際に元帥は素直に感心してみせるが、当のは恐縮した様子で眉尻を下げる。
「これは、私の下心とわがままです。褒められたことではありません」
「私としては、何も知らずにいるよりずっと助かったんだけどね?」
「でも、これで元帥は彼に対する素直な第一印象を抱くことがなくなりました。きっとどこまでも、私の言葉がついてまわります」
なるべく客観的に語ったつもりだが、大いに主観が入っているだろう。だから、それがいいことか悪いことかわからない。そう続けて、少女は仄かな苦笑を刻む。その表情に好奇心を覚えたティエドールは、ふと言葉を継いだ。
「じゃあ、影響を及ぼすついでだ。彼がどんな子か、一言で教えてもらえるかな?」
「……誰よりも夜の似合う、でも決して闇には染まらない人です」
逡巡の後、紡がれる言葉は大切そうにそっとやわらかな声に包まれ、誇らしさと切なさを滲ませていた。
それきりが口を閉ざしたので、短い行程の最後の四分の一を、二人は沈黙を共有して過ごした。たおやかな光を湛える夜闇色の双眸は、終始窓の外の暗闇に向けられていた。その横顔をとても美しいと感じ、ゆとりさえあればスケッチブックを開いたのにと残念に思ったことを、ティエドールはよく覚えている。
結末は実にあっけないものだった。最高ではないが最良。教団はただのひとりもエクソシストの損失を被ることもないまま、事態の収拾に成功したのだ。
あの時、あの場で何があったのか。現場に居合わせたとはいえ、はたで見ていることしかできなかったティエドールには結局わからない。暴力的ながらも神々しく幻想的な力の洪水と、その身が切り裂かれることも厭わず踏み込んだ少女と、それらが収束した先に倒れていた傷ひとつない少年。それがすべてだった。
教団へと連れ帰った少年はその日の昼には目を覚まし、少女の行方を捜すべく残されていた探索部隊員の撤収を進言した。無駄なことだと、ただそう告げるだけで何があったかに関しては頑として口を割らない姿は孤高にしていっそ高潔。そしてその日から正式な弟子となった少年を評した少女の言葉は、なるほどいつまでもティエドールの思考の一端をやわらかく拘束し続けている。
Fin.