連綿と続く思いを
新しく弟子を取ることとなった元帥の旅立ちの日が迫ったある日の昼下がり、相変わらずの忙しさに満ちながらもぽっかりと人気の絶えた司令室に、ひとつの人影がふらりとやってきた。単調でいてどこかけだるげなノックが響き、室長の「どうぞー」という間延びした声に扉が開く。足を踏み入れたのは、闇を纏うエクソシストの少年だった。
「あれ、神田くん。珍しいね。どうしたの?」
物珍しさを雄弁に語る好奇の視線を眉間のしわと鋭い眼光でばっさりと切り捨て、それにもめげず暢気な声を上げるコムイへと神田はあからさまに溜め息をひとつ。それから、床に散乱する書類を遠慮なく踏みしだき、微塵の罪悪感もみせずにずかずかと室長デスクに歩み寄ると、正面で足を止めてひと言。
「鍵を寄越せ」
要求は端的にして簡潔だったものの、いかんせん省かれたものが多すぎて、少年の言いたいことはコムイにはうまく伝わらなかった。
はて、と首を傾げて考え込む姿は、たとえばリナリーあたりがやれば可愛げがあるのだろうが、コムイがやっても可愛げは微塵もない。気色悪さにうっかり鳥肌を立てると同時に遠慮なく繰り出された六幻の切っ先がひたりとその眉間で寸止めされている様に、たらりと流れた冷や汗が少しだけ少年の溜飲を下げる。
「神田くーん、それ、下ろして。真面目に考えるから。ね?」
「考える必要なんかねぇだろ。別に悪用なんかしねぇよ」
真摯な表情による嘆願に応えて刀を腰に納めた神田は、眉間のしわを追加してから不機嫌もあらわに要求を繰り返す。
「いや、だから、どこの鍵が欲しいのかによるよね」
まず目的地を告げてもらわないことには、貸し出すことが出来るかどうかの判断さえ叶わない。ごくまっとうな反論にはたりと瞬き、僅かの黙考を挟んでから神田は「言ってなかったか」と呟くと、改めて口を開く。
「アイツの使ってた部屋の鍵だ」
あっさりと示されたのは、あまりの扱いの難しさから、誰も口にすることのできなかった存在の残り香だった。
これで満足だろうと雄弁に語る蒼黒の双眸がコムイをまっすぐ射抜き、三度、要求が繰り返される。その声にはっと我に返りながら、相変わらずコムイは困惑を隠しきれない。
境界となったあの日からも、神田はそれまでと変わらない様子で生活をしていた。変化といえば、少女を探して廊下をうろつく姿が見られなくなったことと、探し当てた少女と並んでいる姿が見られなくなったことぐらいなもの。師と、師の弟子という修練相手を得たことによってめきめきと腕を上げる神田の生活に、少女の面影はまるで残っていなかったのだ。
それがある種の防衛反応なのだろうと考えたコムイは、いたずらに少女の話題を出したり、その存在を髣髴とさせるような状況に神田を巻き込むことを厭い、今日まで過ぎるほど神経質に水面下で気を張っていたのだ。だというのに、少年はそんな気遣いなど無用の長物だったといわんばかりの態度で、堂々と少女の痕跡を要求している。
どうしたものか、どうするべきか。真剣に悩みこんでしまったコムイを怪訝そうに見やり、神田は実に失礼なことを言いはじめる。
「もしかして、なくしたのか?」
「え!? そ、そんなことしないよ!」
どうだか。慌てて反論した室長を冷ややかな目で見やり、あらゆるものが散乱した机を神田はわざとらしく見渡す。
「ないんなら、扉をぶち破るぜ?」
「だめだめ! それは困るから絶対やめて!!」
「じゃあさっさと寄越せよ」
ぶち破るというのは比喩でも誇張表現でもなく、神田の場合、間違いなくそれを文字通り実行する。木っ端微塵に破壊された扉をうっかり想像し、あまりの現実味の高さにコムイはぶんぶんと首を横に振る。それに対して四度目の、神田にしてみれば実によく耐えた上での要求を突きつけ、これ以上は待たないとの意思を剣呑な視線に載せる。
雄弁な視線を受け、コムイは慌ててデスクの引き出しに手をかけた。探すまでもなく、大切にしまっておいた鍵は、予想通りの場所に静かに鎮座していた。
これ以上機嫌を損ねるのは得策ではないと判断したコムイが素直に鍵を差し出せば、ぶっきらぼうでありながらも実に流麗な所作で神田はそれを受け取る。そのまま用が済んだとばかりに踵を返しかけたところを、コムイは慌てて呼び止めた。
「待って待って! 悪用しないのは信じてるけど、一応、目的を聞かせてもらわないと」
少女を探すのは無駄だと、そう言い切ったのは少年であるが、何があったかの説明をしようとしないのも少年である。長くない付き合いの中で、少年が良くも悪くも嘘偽りを口にしない性格であることは把握できている。少女が仮に死んだとするならば、少年はそう言うはず。それを口にしないということは、少女は死んではいないということ。
その一点に希望をかけ、コムイは必要性が出る日まで、少女の部屋を手付かずのまま保持していくことを決めていたのだ。そこに踏み入ろうというのなら、団員の留守を預かる立場として、コムイには神田に理由を問い質す権利がある。
呼ぶ声に足を止めた神田は、片足を引くことで半身を捻る形で振り返り、見つめてくる室長の視線をまっすぐ受け止めた上で、改めて全身を向けてきた。
「俺たちは、人捜しをしている」
姿勢を正した上で唐突に紡がれたのは、それまで言葉や態度の端々に滲むことはあっても、決して明かされることのなかった神田と少女の抱える何かだった。
「ある人と、ある約束をした。それを叶えるためにこの命を使うと決めた。俺はあの人に会うまで死ぬわけにはいかねぇし、あの人に会うためには、戦場を渡り歩くのが最も手っ取り早くて確実な方法だ」
淡々と響く声に躊躇や迷いの色はなく、ひたと向けられる視線に曇りはない。それとなく問うてもはぐらかすか無視を決め込むばかりだった少年が、なぜ今になってそれを話す気になったのか。コムイにその心は計り知れない。ただ、この場にもし誰か第三者がいたなら、同じ状況でも決して神田が口を割らなかっただろうことを正しく推察し、偶然に深く感謝する。
「アイツは、あの人を知るための標を預かっていた。それを借り受けるだけだ」
言い切って口を噤み、今度こそ神田は踵を返して歩き出す。
ずかずかと進むその足取りに迷いはなく、まっすぐ伸ばされた背筋に歪みはない。無駄のない、実に見事な歩みで扉に辿り着き、取っ手に手をかけて開きかけて、ふと何かを思い出したように神田は首を巡らせる。
「鍵は後で返しにくる。それと、他言は無用だ」
「……うん、分かってるよ」
ついでのように、まるでどうでもいいような口調で付け加えられたひと言だったが、ゆっくりと頷くコムイを見届けた表情には微かな安堵が確かに刷かれている。そのままさっさと廊下に滑り出て、意外なほど静かに扉が閉められると、規則正しい足音はあっという間に遠ざかっていく。
反響さえ聞こえなくなったのを確認して、コムイは胸に溜まり込んでしまった息を大きく吐き出す。垣間見たそれこそは彼の覚悟にして彼らの覚悟。少女を忘れたかのように生きる神田こそが、誰よりも深く少女を覚えて生きていたことを改めて確信する。そして、何とも形容しがたい、ただ身を切るような思いに駆られて、コムイはもうひとつ、深い深い呼吸を繰り返した。
Fin.