朔夜のうさぎは夢を見る

涙雨の午後

 無造作に、しんと静まり返った聖堂に基準音が投げ出される。祭壇を中心にして左右対称に並べられた蝋燭はそれぞれに揺らぎ、あらゆる方向へと無秩序な長さの影を遊ばせている。
 ひっそりと息を潜めて、残響さえ消え去るのを待ってから、もう一度。落下に任せて沈ませたままだった指を持ち上げ、同じ鍵盤にぽとりと落とす。唇は閉ざしたまま、声帯の震えを鼻に抜いて音をなぞり、絡み合う音が反響して全身を撫でる感触に神経を集中させる。そして、今度は音が消えきらないうちに、唇を開いて覚えたばかりの旋律を辿りはじめる。


 音の響きがいい反面、扉を閉ざしさえすれば防音もしっかりしている。おまけにめったに寄り付く人間などいない。仮にもヴァチカン直属の機関であるくせにそんな罰当たりな説明をしてくれたのは、捉えどころのない科学班室長だった。
 ヴァチカンが仰ぐ神を信仰していない人間を多数抱える機関であることは知っていたが、神なる存在をぞんざいに扱うのはどうなのか。変則的とはいえ聖職者の端くれであった経験からそう思いもしたが、好条件の揃う聖堂はありがたかったため、は都合よく利用させてもらっている。
 ようやく身に付けた英語だけで手一杯の身としては、たとえ旋律に乗せられる歌詞に限られるとしても、それ以上別の言語を覚えるゆとりはなかった。記憶に残っている詩歌の音を交えながらも、ほとんどが意味を成さない母音による歌を綴る。
 朗々と歌い上げるその旋律は、死者を悼む祭典において広く愛されるものに酷似していると聞いた。夢の間に間に、闇の魔に、過去とも未来とも知れぬ何かを垣間見、小耳に挟むのはに付き纏う恩寵であり呪いである。その一端として聞き覚えた旋律がなぜか、常ならずひどく印象的に少女の胸に根付いたのだ。


 悼む相手もなく、聞かせる相手もいない。ただひとり、蝋燭の炎が揺らめく聖堂に響かせるためだけに謡いつづける旋律。ともすればそれは、自身へと手向ける弔歌にも見えることだろう。よぎった思いに薄く瞳を開け、仄暗い笑みを刷いては音を中途に断ち切る。
「――なんだ、やめるのか?」
 静けさが戻るよりも先に、声の余韻を縫って響いたのは意外そうな疑問だった。耳馴染んだ声にそれこそ意外なことを問われ、はくすくすと喉を鳴らしながら入り口を振り返る。
「エクソシストに聞かせる鎮魂歌なんて、冗談にしても笑えないじゃない」
「まあ、そうだな。特にお前の場合、いっそ不吉か」
「私は垣間見るだけよ。私の言行が影響を及ぼすわけではないと知っているでしょう?」
 眉を顰めての反論に皮肉げな所作で肩を竦め、寄りかかっていた扉脇の柱から反動をつけて体を起こし、神田はつかつかと通路を歩む。
 豪奢でありながら華美というよりは荘厳。薄暗い空間に、淡い橙色の炎が幻想的に揺れ、神田の端正な顔立ちに神秘的な影を落としている。距離を詰めてくる相手をじっと見つめるは、神田の纏い、引き連れている闇に呑まれる錯覚を覚えてそっと視線を落とす。


 エクソシストは神の使徒。徒人にあらぬ存在。そして神田は、その命において徒人の枠組みから外れた存在を体現する、まさに神の尖兵。常に腰に差されている漆黒の刀の担い手として、ひたすらに戦場へと駆けていく背は凛と鮮やか。だからこそ言えない。少年の背が往く軌跡に闇を幻視し、喪われる恐怖に指先が冷えるなど。
 それだけが未来の一端ではないと、少女は知っていた。戦況はあまりに流動的で、辿る道行きはあまりに不確定。朧に視える場面でさえ、幾重にも揺らぎ折り重なり、しかと定まったためしがない。
 根拠のない幻影など視たくない。そう願う一方で、望む結末に至る幻影を垣間見ればその先を知りたくなる。
 せめぎあう思いは、冷淡に処理するにはあまりに心に訴えるものが多すぎた。ゆえに、少女は掴み取った鎮魂歌を朗じに、信じてもいない異国の神を祭る場へと足を運ぶのだ。
 力を持たず、戦場に立てないでは祈りも言葉も行動も、垣間見る数多の未来に及ぼすだろう微かな影響にかすりもしない。そうと知ってはいても、ともすれば溢れそうになる思いを、どうにかして昇華せずにいられなかったのだ。


 通路の終着点までやってくると、神田は祭壇へと続く階段に躊躇なく腰を下ろした。何の感慨もなく神に背を向け、オルガンの前に座っているを横目に振り仰ぐ。
「歌えよ」
「え?」
 静かに落とされたのは、有無を言わせぬ命令だった。ぱちりと瞬き、気の抜けた声を漏らしたに「間抜け面」と毒づいてから、顔の位置を戻した神田は片頬を歪ませる。
「眠気を誘うだけだから、子守唄だな。ちょうどいい。俺は少し寝るから、歌え」
 いつの間に腰から引き抜いていたのか、刀を肩に預け、立てた膝を抱え込むようにもぞりと動いて神田は姿勢を整える。
「お前が鎮魂歌を歌うことなんかねぇよ。俺は、死なない」
 額を腕に預けながら長い睫を伏せ、言い切った言葉尻はすうっと吐き出された呼気に溶ける。冗談など言う性格でないことは重々承知していたが、本気で睡眠姿勢を決め込むとは思っていなかった。面食らい、は神田の後頭部を見つめてせわしなく瞬きを繰り返す。


 気配に敏いのだから、困惑するのことなど目を向けずともわかりきっているだろうに、神田はそれ以上何も言おうとしなかった。緩やかに呼吸を繰り返すことで意識を沈めていく様子をしばらく見つめ、そっと眉尻を下げて息を吸い込む。
 蝋燭の炎が編み出す影の揺らぎにさえ気を配るように、静寂を縫って聖堂に歌声が響く。言葉を伴わない、しかしそれは祈りの詩。紡ぐのは、経典など知らぬ異教徒たちの、死者を悼む祭典にて広く愛されるという旋律に似たる唄。されどそれは子守唄。生者の眠りを慰めるために。
 憂いを忘れ、嘆きを忘れ、平穏のうちにいざ眠れ。一心に紡ぐ声が途切れる頃にはどうか、知らず床に弾けた水滴が乾いていてくれることを。少女は、切に願いながら唇を震わせ続けた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。