落日遠く
五日目の夕方、神田はようやくその目を開けた。ちょうど見舞いに訪れていたリナリーとアレンの目の前で、しかし神田は、錯乱する精神状態により幻覚でも見ていたらしい。サイドテーブルに置いてあった六幻を掴むと同時に引き抜き、切りかかってきたのがこの騒ぎのはじまりだった。
医療班員が傍にいなかったのは不幸中の幸いだろう。常よりも荒い太刀筋は、アレンたちにしてみれば凌ぎやすさの点で救いだったが、一般の教団員にとっては大差などあるまい。要するに、一撃一撃が必殺の攻撃なのだ。
ぼろきれと化したシーツの散乱する室内を目の当たりにし、ラビは思わず眉間に深く皺を刻んでいた。駆けつけた医療班班長の判断でコムイへ知らせに走ったリナリーを待ちながら、ずっと神田の相手をしていたのはアレンだった。寄生型のエクソシストは、装備型よりもイノセンスに付与される肉体能力の強化が大きい。普段ならば構わないだろうが、病み上がりの、しかも体力低下を堂々と指摘されている相手に対して全力を出すわけにもいかず、慣れない加減に逆に疲弊している様子に、ラビは早々に前衛の交代を申し出る。
二対一になったことによる形勢逆転を判断する理性は残っていたのだろう。距離をとってじっと見据えてくる、しかし焦点の合っていない双眸にラビは悲しくなる。鋭い眼光を映していない瞳は、それでも美しく神田の造形に色を添えていた。
肩で荒く息をしながらも、攻撃をやめる気配はない。隙なく構えて次撃の機をうかがっているが、これらすべてが無意識による反射的行動なのだろうから本当に恐ろしい。体力が低下している割には存外力強い動きに、ラビは内心で呆れと安堵をごちゃ混ぜにする。
「ラビ、ブックマンはいないんですか?」
ブックマンが鍼術の達人であることは、アレンも知っている。細かなことはわからないが、鍼一本で動きを奪うことも可能だと聞く。ならばこそぜひとも助力を乞いたい状況だというのに、弟子は現れても師は現れない。
「言いたいことはわかるけど、あいにくじじいはお出かけ中さ。麻酔は?」
「もう試しましたけど、近づけないからって吹き矢式にしたら、全部叩き落されたんです」
「さすがユウ、ってとこだな」
悲鳴じみた説明に軽く応じてから、ラビはようやく床に散乱している幾本かの注射針の残骸を認める。なるほど、たとえ錯乱していようと、神田にとってそんなもの、刀の一閃で叩き落すのもたやすかったということか。妙なところでその基礎値の高さを見せ付けられた気がして、ラビはほろ苦い笑みを薄く刷く。
「うーん、それじゃあどうすっかな。このまま、ギブアップするまでこぶしで語り合うってのはできれば遠慮したいし」
幸いにも今はイノセンスが発動していない。だが、このまま錯乱が酷くなれば、イノセンスの暴走も考えうる。そんな最悪の事態が起こる前に、何とか収集をつけなくてはならない。自分をここに送り込んだ科学班室長の端的な指示を思い返しながら、ラビは「打つ手なしさ」と小さくぼやく。
僅かに注意が逸れた一瞬の隙を逃さず、神田は鋭い踏み込みでラビの懐へと飛び込んできた。下段から切り上げてくる刃先を身体をのけぞらせることでやり過ごし、神田の背後に回っていたアレンを擁護する形で動きを制限するべく手を伸ばせば、獣じみた動きで回避されて味方同士の相討ち。いい加減体力が限界に近いのだろう。距離をおいてなお届く喘鳴は痛々しく、軽く咽た唇の端から血が伝っている。
「ユウ、ユウ! 目ぇ覚ますさ!」
無駄と知りつつ呼びかけながら、次期ブックマンは頭の中でめまぐるしく策を講じる。頼もしい味方であればあるほど敵に回られたときの厄介さは折り紙つきであり、手出しに躊躇いが出るからなお性質が悪い。
ファーストネームで呼ばれても何の反応も示さないということは、やはり意識はまだ眠ったままなのだろう。では、何がここまで彼を突き動かしているのか。彼は自分たちに、動く的に、何を重ね見ているのか。刀を捌く向こうで思索に耽るラビは、ひとつの可能性に思い至ると同時に確信を与えられる。
「?」
呟いたのは、意味も由縁も知らないただの記号。ごく小さな声だったそれが宙に融けた途端、沈黙を守っていた神田のイノセンスが唸りをあげたのだ。
核心に迫ったことを理解すると同時に、とんでもない地雷を踏み抜いたらしいことを察知して防御に徹すべくやはり己のイノセンスに呼びかけようとしたラビだったが、それは杞憂に終わった。完全にラビに注意が向いた瞬間を狙い、すばやく背後に回ったアレンが神田の首筋に容赦のない手刀を食らわせたのだ。
「アレン、ナイスさ」
「いえ、ラビがひきつけてくれたお陰です」
崩れ落ちてきた体を正面から掬い上げ、ラビは複雑な表情を浮かべる恩人にへらりと笑いかける。あくまで謙虚に言葉を返し、アレンはうなだれる神田の首筋に視線を戻す。
「一応加減はしたんですけど、大丈夫でしょうか?」
「腐ってもエクソシストなんだし、加減したって自覚があるなら大丈夫っしょ。他に方法もなかったんだし」
不安げな同僚を理路整然と宥め、腕の中の身体を抱えなおしたラビは、意図せず拾い上げてしまった単語に瞳の色を曇らせる。同じそれを聞き取ったのだろう。床に落ちていた六幻を拾って立ち上がったアレンもまた、疑念と神妙さの入り混じった表情を浮かべてラビの手元に目線を落としている。
ラビがその名前をはじめて耳にしたのは、ブックマン後継者としての話術と情報収集能力を駆使した結果だった。どうも怪しいと騒ぐ直観と疼く好奇心に従って集めた、歴史の記録にはまるで必要のない情報。結果はあまり芳しいものではなかった。知るものは少なく、信憑性に欠ける噂と思い出話を断片的にしか得ることしかできなかった。わかったのはただ、その名前を冠された存在が、かの冷徹なエクソシストの誕生に深く関わっていたということのみ。
異国の言葉でぽつぽつと呟かれても、意味は取れない。ブックマンになら理解できたかもしれないが、ラビにとって神田の母国語は理解できない言葉なのだ。ただ、うわ言の中で唯一意味を結ぶ音が、脳裏でカウントを増していく。
――八。
騒ぎと被害の拡大を懸念して、コムイあたりが人払いでもかけてくれていたのだろう。開けっ放しにされていた扉の向こうの診療室にも、その先の廊下からも、常のようなざわめきが感じられない。しんと静まり返った空間だからこそ、囁くような、呼気に絡んで零れ落ちる音がいやでも際立つ。
――九。
「きっとコムイが廊下封鎖してるさ。悪ぃんだけど、ちょっと知らせにひとっ走り行ってきてくれね?」
蟠る沈黙と蓄積される呼び声に足元から埋め尽くされて窒息する錯覚を覚え、ラビはひと言ひと言に力を篭めながら、硬直しているアレンを呼ぶ。その声にびくりと身体を揺らし、我に返ったらしいアレンが承諾の返事と共に走り去っていくのを見送る。そしてラビは、すっかり暗くなってしまった室内を危なげなく横切って、被害を受けていないベッドに、眠る神田を横たえる。
『……』
声に滲む響きの危うさも、薄闇の中で目尻に見えた気がした光も、当人の許しなく触れていいものではないだろう。
記念すべき十回目のカウントは、対象から目を逸らした記録者の胸に、感傷を伴ってただ静かに刻み込まれた。
Fin.