朔夜のうさぎは夢を見る

夜明けのうた

 いつになく硬い表情を崩さず、手につかない書類を前に座り込んでいたコムイは、電話のベルが鳴るたびに過剰なほどの反応を示した。室長デスク直通の電話は沈黙を保ったままだから、畢竟、その反応は受話器を手にした科学班の誰かしらに向かう縋るような視線へすりかえられる。
 真意を読ませない表情に慣れている面々にとって、内心の思いがこうも表出しているコムイは不慣れなことこの上ない。しかし、その思いは誰もに共通するものであるから、彼らもまた電話のベルが鳴るたびに縋るような思いで応えるのだ。
 何度目かの受話器を取って相手が求める人物でないことを知ると、リーバーは顔を部屋の奥へと向けて小さく頭を振った。伝えられる内容を蔑ろにするわけではないし、真面目に受け答えを続ける。それでも、がっかりした思いと焦る気持ちを殺せないのが現実だった。
 エクソシストの派遣は、彼らを死地へと送り込むこと。命の危険性がない任務など存在しない。最も危険な場所へその身とその武器ひとつで乗り込むからこそ、彼らは常に己を鍛え続けている。それによって保たれる、年齢や性別を超えた人並み外れた強さを知っている。
 中でも、誰より己に厳しい彼だからこそ、経験が浅かろうとそう簡単に死ぬことはないだろうと信じられた。しかし、まだ彼は正式なエクソシストではない。不測の事態に他のどのエクソシストよりも近いのが彼なのだと、リーバーをはじめとした一部の科学班員たちにはわかっていたのだ。


 まんじりとしないまま時間が過ぎていくが、仕事も敵も待ってはくれない。張り詰めた空気に満たされた司令室は実に息苦しい。かといって率先して沈黙を破る気になれない室内の面々は、突如響いた慌しいノックと、許可を待たずに開け放たれた扉に一斉に振り返る。
「……くん?」
 扉の向こうに立っていたのは、細身の少女。常の彼女からは考えられないほど荒々しい足取りで呆然と名を呼んだコムイの許に一息に駆け寄り、は思い詰めた表情で「外出許可をください!」と叫んだ。
 机の天板に両手をつき、身体を乗り出す様はまさに鬼気迫るといった表現がしっくりくる。呆気にとられるばかりでなかなか返答しないコムイに焦れたのか、はさらに身を乗り出しながら口早に言葉を継ぐ。
「お願いです、行かなくちゃいけないんです! でも、外に出るには室長の許可が必要だと。だから、許可をください!!」
 しかし、告げられた内容はコムイにとってよくわからないものだった。
 確かに、少女がエクソシストであるならばその所在を把握しておく必要性から、任務かそうでないかに関わらず、教団を空ける際にはコムイの許可が必要となる。だが、は一般の教団員だ。直属の上司、彼女の場合はリーバーに報告さえしてくれれば、特にコムイの許可を仰ぐ必要などない。もっとも、今回の場合はもう深夜とも呼べる時間帯が大いに問題だったが。


 困惑を載せて顔を見合わせるコムイとリーバーに「お願いです」と絶望に染まった声がかけられるのに続いて、第三者の声が響く。
「そんな思い詰めた表情で水路に立たれては、どう贔屓目に見ても平和な外出とは思えないからね。遭遇したのも何かの縁だと、余計なお世話を焼かせてもらったよ」
「ティエドール元帥!」
 飄々と嘯きながら司令室に入ってきたのは、黒いコートを纏った三つの人影。その先頭に立つ男を呼びながら思わず腰を浮かせ、コムイは口元に安堵の笑みを刷く。
「ご無事のご帰還、何よりです。お待ちしていました」
「うん。何だかバタバタしているね。手が入用かな?」
 デスクを回り込んで帽子を取り、深く腰を折った科学班室長をちらと見やり、誰もが何とも言いがたい視線を向けてくる室内を見渡して。元帥は、穏やかに微笑んだ。


 の存在にほんの僅かな躊躇を挟みはしたものの、コムイは簡潔に状況をまとめて説明する。
「つきましては、ご帰還早々で申し訳ないのですが、援護に元帥の弟子をお借りするお許しを戴きたいのです」
 いつの間にか姿を消し、紅茶を運んできたリーバーの計らいで元帥を立たせたまま話を進めるという失態は免れたものの、コムイは礼節だの何だのを頭からすっぱり抜き去った状態で必死に窮状を訴える。さすがにティエドールに面と向かって依頼を出すことは憚られたが、ならばその弟子だけでもと思っての懇願には、思いがけない返答が与えられた。
「いや、いいよ。私が行こう」
 軽く頷いて、ティエドールはソファの後ろに立っていた弟子たちを振り返る。
「結構な強行軍だったから、君たちが無理をすることはない。代わりに、報告よろしく」
「承知しました」
「ま、しょーがねえか」
 にこりと笑いかけられてそれぞれに承諾を返した弟子たちに満足げに頷き、次いで元帥は少し離れた位置でぴりぴりと意識を尖らせている少女に声を放る。
「目的地は一緒かい?」
 地を睨み、両腕で身体を掻き抱き、滾る激情をまさに押し殺しているのだと雄弁に語っていたの体躯がびくりと震え、一転して縋りつく空気が迸る。まっすぐに向けられた視線は鋭いが、深い絶望に呑まれつつある。
「我々が受け入れられるだけの理由があるなら、連れて行ってあげるよ」
 夜闇色の双眸を見つめ返し、穏やかでいながらも隙のない視線でティエドールはそう続けた。


「暴走しかけています」
 部屋は人払いをしていたが、残った面々は皆その視線に人並み以上の存在感を持つ。それらを一身に受けているというのに小揺るぎもせず、は表情を歪めて声を引き絞る。
「六幻の力が異常に高まっています。今はまだ多少抑えられていますけど、箍が外れるのは時間の問題です」
「六幻は、派遣している適合者のイノセンスです」
 言葉の継ぎ目を狙ってコムイが慌てて言葉を足せば、ティエドールは驚きに目を見開く。
「イノセンスの力を感じられるのかい?」
「私は、六幻を鎮めるための巫女ですから」
 問いかけにきっぱりと答え、少女はひどく沈鬱な表情でティエドールを見据える。
「状況はわかりませんが、この気配には覚えがあります。野放しにしておけば手がつけられなくなるでしょう。――私ならば、鎮められます」
 それはあまりに衝撃的な説明だったが、事実だとするならば由々しき事態だった。イノセンスの暴走と聞いて、コムイやティエドールが連想するのは咎落ちだ。せっかく得られた貴重な適合者が喪われようとしていて、目の前には、それを食い止められると断言する存在がいる。
 目を見合わせた二人の決断は、早かった。


 すべてを事後処理で済ませることを室長権限で決定し、コムイはとティエドールを見送りに水路に立っていた。半日前、同じように明かりに揺らめく黒髪を見送った。その少年と同じ、しかし正反対の風合いを持つ黒髪を襟足で括った少女は、銀ボタンと薔薇十字の施されていない黒いコートを身に纏っている。
 意匠こそ異なるが、素材はエクソシストの纏う団服と同じものだ。元帥からの叱責を覚悟した上で詭弁でしかない言い訳を用意していたコムイは、何も言わず舟に乗り込んだ背にそっと黙礼を送る。
 その後に続いて舟に乗り込んだに、コムイは声には出さずに胸の内で「ごめんね」と呟いた。戦場に立つなと言われ、それを承諾したという幼い約束を破らせるのは他ならぬコムイの判断だ。戦場に送るには早すぎたエクソシストと、そのエクソシストを喪わないためになされる、適合者でもない少女の命をチップとした賭け。
「行ってらっしゃい。お気をつけて」
 内心を押し隠し、出来る限りの笑みを浮かべてコムイは進みはじめた舟に声をかける。それぞれに見送りの文句を送る弟子にティエドールは片手を振り、はたおやかな、いつかのような月に似た笑みを浮かべて朗々と告げる。
「私は、私のなすべきこと、なせることを精一杯になすだけです。それも、約束ですから」
 声が消え、舟の影が見えなくなるまで見送ってからコムイは額に手をやって俯いた。半日前の見送りと同様、あの子供たちがいずれも「行ってきます」とは言ってくれなかったことに、いまさらながら思い至ったのだ。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。