行くべきを知っている
その日、奔放と型破りの代名詞たる元帥が廊下でその少女を拾ったのは、偶然と気まぐれの一致による、ひどく希少な現象だった。
必要性があってもなるべく立ち寄らないようにしている教団本部にこれほど長い時間拘束されるのは、彼としても不本意であり滅多にないことだと自覚がある。しかし、それが逃れようのない時間であるならば、いっそのことと開き直ってなるべく快適に過ごそうとするのが彼の彼たるゆえんでもあった。
よって、厨房の主から受け取った酒の肴を手に私室に戻る途中、酌をさせるにちょうどいい小娘を見つけた以上、持ち帰らないのは彼の主義主張に反するのである。
「――と、いうわけだ。わかったか?」
「相手の納得や同意は必要としないご説明ですね」
豪奢なソファにどっかりと座り込んだクロスの隣にちょこんと浅く腰掛け、少女は溜め息混じりに説明への理解を示す。立場上不敬罪を問われても仕方ないことを承知の上で嫌味を篭めたというのに、元帥は気にした風もない。いっそ当然といった口調で「必要ないからな」と嘯かれてしまっては、これ以上の皮肉を捻り出すこともばかばかしい。
隠そうともせず深々と溜め息をこぼすことで意趣返しに代え、は突き出されたグラスに酒を注いだ。
エクソシストが形ばかりの聖職者であることも、その稀少さゆえに相当な好待遇を敷かれていることも説明されていたが、クロスの部屋はまさにその具現といったところか。旅の最中で見かけた聖職者たちが掲げる質素倹約だの清貧だのといった言葉とは正反対の雰囲気を醸し出す部屋は、としてはどこか居心地が悪く、落ち着かない。
「せっかくの酒が不味くなる。もっと色っぽい表情でも浮かべてろ」
「お言葉ですが、小娘風情ではこれが精一杯です」
「口だけは一人前だな。いつの間にそれだけ英語を学んだんだか」
「アニタ姉さまのおかげです」
からかう色を前面に出した声に憮然と切り返すその名前に少女は冗談交じりに教えられた内容を思い出し、ふと気まぐれにしなを作ってみせる。もっとも、それこそクロスには小娘のおふざけにしか映らなかったのだろう。遠慮のない笑い声が上がり、はばつの悪さに頬を染める。慣れないことなど、するべきではなかった。
「はっ、もっと歳を重ねて出直してこい」
ようやく笑いが収まったのか、それでもいまだ揺れる声で告げながら、男は酒を煽る。ぐいと一息で飲み干し、こぼれる息には過ぎるほどの色香が匂い立つ。しかし、数多の女性を虜にしてきたというその気配に晒され、少女は無表情のまま心中で悔しさを噛み殺すにとどまるだけだった。
良くも悪くも己というものを正確に把握しているクロスは、自身に対してなびくどころか、照れや恥じらいをちらりとさえ見せない少女にひょいと片眉を跳ね上げ、それでも気にせず話を進める。年端のいかない小娘に興味はないし、何より、少女の目に映る“男”はただ一人であると知っていた。
「それにしても、あっという間に教団に馴染んだな。小僧とは好対照だ」
「ユウはそもそも人嫌いの気がありますから。あれでも随分と心を許していると思います」
誰に対してもにこやかで友好的な少女と誰に対しても冷ややかで攻撃的な少年は、クロスが指摘するまでもなくそこかしこで対のように扱われている。その性格の対照性はもとより、同郷出身であるということや同年代であるということを差し置いた上でも、二人の関係の特殊さは明白だった。
友というには深く、家族というには違和感があり、恋人というには凄絶。何とも形容しがたい、しかし切り離すことができないという事実のみが厳然として存在する彼らの寄り添い方こそ、適合者ではない少女を教団が受け入れた最大の要因。少女を手放すことによってかの適合者に負の不確定要素が加わる危惧を進言した幾人かのひとりは、他ならぬクロスであった。
「お前とお前以外とでは、随分と態度に差があるようだが?」
「それは私も同じです。出会って間もない相手と、ずっと過ごしてきた相手。態度に違いが出るのは当然かと」
もっとも、そのクロスをもってしてもそれ以上が読み取れない点に、少年と少女の関係の危うさを感じているのもまたクロス自身。ことあるごとに向ける揶揄と探りを含んだ視線も声も、すべてをさらりと受け流し、少女はことりと首を傾げて常の態度で酒瓶を持ち上げる。
「お前、本当にこのまま教団にいるつもりか?」
満たされた杯をもてあそびながら、ふと元帥は言葉を落とした。相当量のアルコールを含んだ後とは思えない、静かで深い声。少女が視線を上向けても、視線は返されない。ただ目の前に向けられている横顔は内心を読ませず、静謐な、深遠な瞳が暗闇に際立つ。
「エクソシストがどんな存在か、お前はわかっているのか?」
「わかっているつもりです」
だから、少女もまた視線を元に戻し、手の中の酒瓶を見つめながら常の声で返した。何もかもを見透かした上で、教え子の答えを確かめるような声音。内心に浮かんだクロスの声への喩えにくっと唇を吊り上げ、少女はゆるりと言葉を紡ぐ。
「神の使徒。神の尖兵。神の道化。神への生贄」
二人以外にはベッドで眠るゴーレムしか存在しない、静けさに満ちた部屋。だからこそ、決して大きくはないはずの声が過ぎるほどの強さで存在を主張する。己の言葉にぴくりと意識を向けたクロスを感じ取り、くつりと笑っては続ける。
「あなたが何を仰りたいのか、私が正確に量れているとは限りません。クロス・マリアン元帥」
視界から消えた杯が、空になって戻ってくる。そこに酒を満たしながら、少女は言葉を添える。
「ですが、これだけは保証しましょう。彼は、強くなります。そして、誰よりもエクソシストらしいエクソシストとなります」
「お前という足手纏いを抱えていても、か?」
「私という足がかりがあるからこそ、です」
視線と共に落とされた声にいっそ冷ややかに返し、瞳の奥に燻る暗い笑みを隠さぬまま少女は面を持ち上げる。
「私の存在は布石です。ユウは、私を越えて先へ進みます。その向こうに至るにあたり、強さを得るか、崩壊するか、それを断言することは誰にもできません。未来は不確定なものですから。ですが私は、儚くも強く、誰よりもまっすぐに進む彼を知っています」
歌うように言葉を織り上げ、じっと瞳の奥を見透かすクロスの視線と正面から向き合いながら、は嫣然と微笑んでみせる。
「鞘は、刃のために、刃と共に、刃が折れるまで。私の存在は、未来永劫過去永劫、ユウのために。それが、誓いであり願いであり、私の意義です」
「……小娘かと思いきや、女の表情だな。いい貌だ。もう少し年を喰ってれば、好みだったんだが」
くくっと喉の奥で笑声を押し殺しながら、クロスは心底楽しくて仕方ないと嘯く。多くの女が、その色香に呑まれ、ほだされ、男の虜となったのだろうがは動じない。ただひとりと、そう決めた心に、それ以外の男の無節操な色気は響かない。
酒を注ぐ仕草は、世慣れた女たちと比べれば洗練されているとは言いがたかったが、流麗さを損なわない、品の良いものだった。最後の一滴をわざとらしく水面に落としたのは、少女なりの何らかの抵抗か。「おしまいですね」と言い、酒が干されるのを待って腰を上げたをクロスは咎めない。ただ、少女の細い指が扉の取っ手にかかる寸前を狙い、低く声を響かせる。
「それでも、お前の存在はあの小僧の足を引っ張りかねない。わかってるのか?」
「わかっています。それに、ユウには達成すべき目的がありますから、私の存在が足手纏いであることは、私こそが良くわかっています」
問いには、一呼吸分の間をおいてから、やはり、静かな声が返された。持ち上げた手を取っ手にかけ、首から上だけを巡らせて、はクロスの部屋を訪れてからはじめて表情に寂寥を刷く。
「ユウは強くなります。悲しければ悲しいほど、辛ければ辛いほど、強くなります。それゆえに理解してくれる方がとても少ないのが心配です。でも、強くなります。ご心配には及びません」
ただ静かな目で男が見やる先、眉尻を下げ、口の端をほんの少し持ち上げて。はにかむ少女は、年齢相応のあどけなさと年齢不相応の諦観を滲ませる。
「ただ、何かを得る裏側には何かの犠牲がつきものというだけの話です。――ユウが求める強さの代償が、私の命で足りるならよいのですが」
男の返事も反応も待たず、切なげな声を絡めた溜め息を置き土産に。少女は今度こそ、扉をするりと抜け出ていった。
Fin.