朔夜のうさぎは夢を見る

やがて結末のときは

 飲み込む光と包み込む闇。相克する二つの存在を自覚した頃には、すべてが終わっていた。視覚、聴覚、嗅覚、触覚。何ひとつ機能しない空間に投げ出され、浮遊感とも落下感ともしれない居心地を感じる。
 機能しているのは思考回路だけ。それさえもやがて鎖されるのだろうという奇妙な確信があった。
 ここはどこだろう。彼はどうなっただろう。自分はどうなるのだろう。
 溢れ出してはちりぢりに解けていく思念。自身という概念すら薄らいでいく。外界と自分の境界がわからない。どこまでが自分の領域で、どこからが自分の外の領域か。解けていくのは取り巻く世界か、自分をかたどる何かか。
 ゆらゆらと定まらない思考はまるで均衡を失った天秤。確かなのは支える軸のみ。なすべきことが残っている。傍にいたい人がいる。だから、戻らないといけない。決して手放すわけにいかないその思いを掻き抱き、少女は自分と溶け合っていく世界に声なき叫びを放つ。
 必ず、必ず戻ってみせるから。どうかそれまで待っていて――。


 瞼を透かして感じる仄明かり。鼓膜をくすぐる風の音。少しかびっぽいにおい。ひんやりと硬い石の感触。ぴくりとも動かない身体は、極度の疲労によるものだろうか。底のない沼に沈むような、終わりの見えない沈下の感覚がけだるくも心地よかった。
 深く息を吸い、吐き出す音。胸郭の奥で、首筋で、手首で脈打つ拍動の実感。持ち上がらない瞼ゆえに包まれた薄闇の中、命が絶えていないことをひとつずつ確認していく。
 それでも、揺らぐ感触はどうにも定まらなかった。時間の観念が曖昧なくせに、久しぶりだと確信している五感がうまく掴めない。
「――――」
 音が聴こえる。明確な意図を持った音だ。そちらに行けばいいのかもしれない。戻ると誓った世界はすぐそこにある。だというのに、あと一歩、踏み込むための何かが足りない。


 何かないか。足がかりでも、手がかりでも、道標でも。行かなくてはならない。行きたい。行くと決めたのだ。もどかしさに歯噛みするのに、指先ひとつ、瞼ひとつ動かない。
「――――」
 音が聴こえる。でも、その音では足りない。違う。もっと別の音が必要なのだ。散逸していた思念がうねりをもって溢れ出す。ぽつぽつと零れるだけだった思いが方向性をもって走り出す。
 音ではない。声が欲しい。誰かの声ではなくて、彼の声。声が声であればいいのではなく、意思を篭めた声。力ある言葉。それさえ掴めれば、きっと踏み込むことができる。
 自分の力で立ち、切り拓き、進むことをよしとする彼に甘えたくはなかった。けれども、どうしようもないときには助けてくれることも知っていた。
 長く抜け落ちていた感覚と意識は、自身のカタチさえあやふやに溶かしてしまった。それを掴みなおすには、導いてくれる指針がどうしても必要なのだ。
 欲するものは明白なのに、それさえ思い返すことができない。解けてしまった、溶けてしまったそれを取り返したくて、取り戻したすべての感覚を必死に研ぎ澄ませる。


「呼んでやれ」
 わだかまる陽炎に誰もが驚きを隠せない中、ひとり落ち着き払っていた元帥は静かにそう諭した。
「方舟にほとんど融合している状態だな。抜け出せるかどうかは、本人が“自分自身”を明確に意識できるかどうかだ」
 まったくもって滅茶苦茶だな。呆れの溜め息に絡められたのは、恐らく誰よりも現状を正しく把握しているだろう元帥の指示さえも賭けにしかならないという事実。
「俺には確信できんが、そうなんだろう? ならば呼んでやれ。呼び戻す覚悟があるのならな」
 億劫そうに投げかけられた視線の先には、珍しくも目を大きく見開き、内心の動揺を隠さず曝け出している青年がいる。
 促す声に付け加えられたのは、箴言にも似た逃げ道。それはある種の優しさだったが、青年が誰よりもその手の選択肢を嫌っていることを、少しでも彼に関わったことのあるエクソシストたちはよくわかっていた。


 誰よりも遠かった位置から、誰よりも近い位置へ。無駄のない足捌きで静かに歩み寄り、神田はするりと片膝をつく。
 陽炎は音もなく揺らぐばかりで、輪郭をはっきりとさせない。わかるのは、リナリーとアレンの中間にあたる程度の大きさだということと、黒っぽい色を纏っているということ。それ以上もそれ以下もない、ただの影。だというのに、屈みこんだ神田は躊躇うように、あるいは恐れるようにそっと指を伸ばし、触れる寸前で逡巡している。
 静かな目で見やる元帥と、余すことなく記録を続けるブックマン後継者と、何かを透かし、重ね見ているらしい少女。その隣で、新たな臨界者は新たな適合者と共に、困惑を沈黙に篭めることしかできない。
「――
 やがて落とされた声は、ただ静謐な深さを湛えていた。躊躇いも恐れも何もない、あるべき音をあるべきように発した理想的な音調。その背を長い黒髪が滑り、肩が沈むことで見守るものたちは神田が指を陽炎に触れさせたことを知る。そして、呼ぶ声を待ちわびていたように、陽炎がカタチを結びだす。


 光と闇が粒子となって散り、後には地に伏す少女が残された。穏やかに上下する背は健やかな眠りを知らせ、投げ出された指先は通う血を示して仄かな薄紅色。差し伸べられていた青年の骨張った指が顔にかかる髪をかきあげ、そっと耳にかけてやる。
「手の届かねぇところには行くなって言っただろ、馬鹿」
 悪態はこの上なくやわらかな響きで空気を奮わせる。そのままぞんざいとも思える仕草でひょいと少女を担ぎ上げ、青年は背後を振り返る。
「持ち帰ることに異論はありますか?」
「拾った迷子は元いた場所へ戻す。常識だな」
 鋭さが僅かに影を潜めた視線はいっそたおやか。ぶっきらぼうな丁寧語でこの場の指揮官に許可を仰ぎ、得られた首肯に青年は目を細める。
「適当な場所に寝かせておけ。変に叩き起こすより、専門家に診せた方が早い」
 端的な指示には特に言葉を返さず、黙って行動に移すその動作にはやはり無駄がない。それでも、直視することは憚られ、誰もがそっと横目に見やる先、外套を敷いた椅子に少女を下ろす仕草がどことなくやわらかいことを察し、彼らは黙って視線を逸らせた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。