朔夜のうさぎは夢を見る

目を閉じれば

 常日頃は優しく穏やかであり、戦いにおいては厳しく冷徹であり、神田とのことには過剰なくらいよく気がつくのに、己のことには過ぎるほどに無関心。それが、その人の在り方だった。
 出会った状況から知ったのは、その人が呪術の類に長けているということ。拾われ、共に過ごすようになってからわかったのは、その人が異形の化け物との戦いに慣れているということ。比類ないほどの強さを誇るということ。そして、二人の知らなかった世界の真情を深く知っているということ。
 何ごともない平穏な時間を使って、その人は神田とに戦う術と生き残る術を徹底的に叩き込んだ。その人が戦線で振るうのは、槍に似た長い棒状の武器。しかし、剣術においても体術においても、はおろか、幼い頃から剣術に慣れ親しんでいた神田をもってさえまるで敵わない腕の持ち主であり、二人が師事するに不足などありようはずもない。
 二人が二人なりの距離の置き方と親愛の示し方をもってその人に懐き、慕うようになるのにさほどの時間は要らなかった。それでもその人は、二人にその名さえ許そうとはしなかった。


 食事の用意をするのはその人との役目であり、代わりに神田は、と後片付けを担当していた。
 三人で過ごすことを幸福に思いこそすれ不満に感じたことはなかった。元々口数が少ない神田がいたとしても、話をするのはもっぱらとその人である。そういう意味ではほとんど差などないに等しいのだが、はその人と二人っきりで話をすることのできる食事の準備の時間を、とても特別に感じていた。
 名前が一般的に言われる以上に大切なものであることを、はその徒人とは違う視覚と聴覚により、誰に教えられるでもなく悟っていた。それゆえ、名を許してくれないのはそれだけ強い意味があるのだろうと、漠然と考えていた。
「誰かとの約束ですか?」
 そう問うたきっかけが何だったかは、曖昧に融けてしまった。それでも、何かをきっかけにして、はある日の食事を用意しながら、その人の名にまつわる話を問うに至ったのだ。
 無垢で残酷な無知さによる問いをその人は責めようとはせず、ただ、それはけじめであり戒めであり、何より覚悟なのだよと、哀しげに微笑んでいた。


「神田も、そういえば名を呼ばれるのを嫌がるね」
 お前には呼ばせるくせに、私には呼ばせてくれない。おどけたように拗ねたように、笑いながらを見守る瞳は優しさと寂しさを同じほど溶かしあい、大切な何かを包み込む慈愛に満ちていた。ふんわりと抱きすくめるような眼差しに見つめられるのは素直に心地良く、軽やかに笑いながらは答える。
「前に、外の人に女の子と間違われてから、すっかり嫌がるようになってしまったんです」
 村の人はみんな、ユウが小さい時に一通りからかっているから、間違えるとものすごく不機嫌になることを知っていたんです。だからきっと、物心ついてから面と向かって間違われたのは、あれがはじめてだったんだと思います。
 推測と聞き知った事実と記憶とを交えて説明すれば、その人はますます愛しそうに双眸を細める。
「それは災難だったね。なるほど、あんなに男前なのに、女扱いされてはそれは業腹だったろう」
 笑い混じりの声でしみじみと同情を示し、ねぇ、と呼びかけるのはの背後。ぎくりと振り返ったは、気配を殺しながら額に青筋を立てるという器用な真似をしている神田に、さっと顔を蒼褪めさせる。


 そういえば、今日は食事の準備だけで使い切ってしまいそうなほどの薪しか集められなかったからと、手の空いていた神田は木の枝を拾いに行っていたのだった。頃合を見計らって戻って来ると言っていたのだから、そろそろ食事の準備が仕上がるこの場に立っているのも不思議はない。
 恥さらしをされたと雄弁に語る神田の形相に「ごめんなさい!」とが悲鳴じみた声を上げれば、くつくつと喉を鳴らすだけだった笑声が高く弾ける。
「謝るぐらいなら余計なことしゃべんな! で、笑うなっ!!」
「いや、貴重な話を聞かせてもらったよ。微笑ましい勘違いじゃないか」
「微笑ましくなんかねぇよ!」
 脇に抱える枝をへし折らんばかりの勢いでがなりたてる神田に、その人は苦しげに息を切らせながら笑いを収め、目尻を拭ってからゆっくりと口を開く。
「では代わりに、私のとっておきを教えよう。それでおあいこだ」
 お前たちも随分と腕を上げたしね。そろそろ一番の難関が待っているから。
 苦笑の混じる声で紡ぐにはあまりに殺伐とした単語が続いたが、その人の浮かべる表情は、あくまで愛しい存在を包み見つめる穏やかさに満ちた、深い微笑みだった。


 それは、波乱と危険に曝され通しだった、しかし確かに最も愛しく幸せな記憶と断言できる過ぎし日のこと。何ひとつ褪せることなく、とは言えない。記憶は端からぽろぽろと欠け落ち、いつの間にか磨り減っていく。どれほど大切に抱え込もうと、どれほど必死に蓋をしようと、それが逃れえぬ結末なのだ。
 それでも、憶えていることがある。瞼を落とせばその裏に、色と音とにおいを伴って、まざまざと描き出せる。
 声音と言葉の落差に思わず真顔に戻ってまじまじと見つめる神田とににこりと笑い、「でも食事が先だよ」と、その人はいつもの調子で煙に巻くばかり。
 不満に思う気持ちはあれど、そうやって笑う時は食い下がるだけ無駄であり、宣言したからにははぐらかすことなどない。長くはない付き合いの中でそれを知った二人はおとなしく引き下がり、和解をした上で和やかな食事の時間を過ごす。
 そしてその日の夜、二人はその人の抱き続ける嘆きを知り、懺悔と共に宿願を知った。それは、なるほど、喪うはずだった命を繋げられたことへの対価として払うにつりあうだけの重み。二人にとって叶えたくもあり叶えたくなどない、切なく哀しい渇仰だった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。