朔夜のうさぎは夢を見る

難しいことじゃない

 敵の残存がいないかの探索から戻るや、喧々囂々と騒ぐ弟子とブックマン後継者が息を切らすのを悠然と待ち構えていたクロスは、その余裕を崩さないまま、馬鹿騒ぎに加わらずに醒めた目を仲間たちに向けていた青年を呼んだ。
「おい、小僧」
 肩で息をしている仲間の後ろに佇んでいた神田は、呼ばう声が自分を示していることを正確に察し、不機嫌な視線を持ち上げる。その呼称にはいろいろと思うところがあったが、下手に逆らうのも得策ではないと判断できるほどには、クロスのことを見知っていたのだ。
「嫌な気配や妙な空気は感じるか?」
「……いえ」
 続けられた言葉は不穏そのもの。さすがに表情を引き締めた不肖の弟子をちらりと見やり、元帥はいくばくかの間を置いてから返された否定の返事に「そうか」と鷹揚に頷く。
「師匠、何かあったんですか? というか、どうして神田に聞くんです?」
「勘の働くやつの直感は当てになる。こいつは、その意味では群を抜いているだろう」
 疑問符を一杯に浮かべて口を開いたアレンにけろりとクロスは答えた。問いかけた張本人であるアレンもその回答には驚いたようだが、残る面々もそれぞれ意外の表情を浮かべてクロスと神田を交互に見やっている。接点も交友もなさそうな二人が、互いの人となり、実力をわきまえたように振舞うのが腑に落ちないのだろう。しかし、クロスも神田もそれには一切見向きもしようとしない。
 ぽかんと口を開けて固まってしまったアレンに一瞥をくれ、それからクロスは視線を流す。つられて首を巡らせたエクソシストたちが見たのは、一行が佇んでいる場所から僅かに離れた床に蟠る闇とも光とも言い知れぬ陽炎だった。


 それぞれがそれぞれにできる範囲で臨戦態勢を整える中、クロスだけは態度を崩さない。
「だから、嫌な気配は感じるかと聞いただろうが。感じないなら敵ではないんだろう」
「あんなあからさまに怪しい感じの影、疑うなって言う方が無理です!」
「てか、一体いつの間に現れたんさ?」
 暢気な師匠に噛み付く弟子を尻目に、ブックマン後継者は「気づかなかったさ」と呻く。苦味の滲む声は、口を開かなかったものたちの内心を代弁している。いくら彼らが疲弊しきっているとはいえ、戦場をいくつも駆け抜けてきた以上、警戒心は人一倍なのだ。こんなにもやすやすと見知らぬ気配に接近を許すなど、本来ならば考えられない。
「敵意もなければ気配も薄い。別に恥じ入ることじゃないだろうよ」
 独り言になるはずだったぼやきに近い呟きに律儀に返すと、クロスは正体を見透かすように両目を眇める。
「なんかうろうろしている感じはあったんだが、ようやく姿を見せたと思ったらこの有様だ」
「僕がこの部屋に入ったときには感じませんでしたよ?」
「だろうな。俺も感じ取れたのはついさっきだ」
 困惑に揺れるアレンに答えながら、疲れたような溜め息をついてクロスは頭を掻く。


「あー、ダメだ。見えやしねぇ」
 目を擦ってあっさりと投げ出したクロスはもはややる気など微塵もない様子だったが、それでは困るのだ。慌ててアレンとラビが抗議の声を上げる。
「えっ!? ちょっと師匠、諦めないでくださいよ!」
「そうさ! 元帥に見極められないのに、オレらにわかるわけないじゃん!」
 場に集う中で最も地位が高く、経験も積んでおり、何より魔術への造詣も深い。そのクロスが投げ出してしまっては、彼らになす術などないことは明白なのだ。
「アレン、あれはアクマか?」
「へ? いえ、違いますけど」
「じゃあいいだろ」
 面倒そうに弟子に確認を取り、そのまま終わらせようとしたクロスは、先ほどから一言も発さないまま、陽炎を見つめ、表情を曇らせている青年に気づいて眉を跳ね上げる。秀麗なその顔に浮かんでいるのは、周囲の困惑や驚愕と種を異にした色。ありえないと雄弁に語る視線が何を透かし見ているのか。察するための情報は、クロスの中に揃っていた。


 まるで考えもしなかったが、なるほど、そう思って見やればそうかもしれないと感じさせられる。観察すればするほど可能性は高まるが、それでもクロスは確信には至れない。ただ、直感的な確信に至りつつもその根拠を掴めずにいるらしい青年を信じるのも一興だとは感じていた。
 にぃと口の端を吊り上げ、クロスは呟く。
「なるほど、いい女に育ったじゃねぇか」
 低く落とされた言葉を拾い上げたのか、怪訝そうな表情でリナリーとアレンがクロスを振り仰ぐ。それをばっさりと無視して、辿るのは闇を纏うエクソシストがまだエクソシスト見習いにすぎない、小さな適合者だった頃のこと。ほんの一時を共有しただけだったが、あの時の教団には、リナリーの他にも将来の楽しみな少女がいたのだ。
 いい女というのは一途なもので、少女はあの時から既に過ぎるほど一途だった。その一途さが、年経ても、距離が離れてもなお変わらずにいるというなら、何ともけなげなことではないか。喉奥で笑いを殺し、クロスは神田を見やる。


 経緯など知らない。何があったかなど知らない。だが、現状は把握できる。今こそは彼らの分岐点。かつて少女が己に告げたように、彼らもまた分岐に立ったのだ。
「呼んでやれ」
 覚えているのは、告げた言葉もまた。見届けてやると宣言した。ならば、ここで目を逸らすわけにはいかない。彼らの選択を見届け、彼らの結末をできるなら見届けてやろうではないか。かつて気まぐれに思ったことをなぞりなおし、クロスは動けずにいる神田を促す。
「方舟にほとんど融合している状態だな。抜け出せるかどうかは、本人が“自分自身”を明確に意識できるかどうかだ」
 疑問を投げかける視線を感じるが、答える気はない。記録者の目つきが変わったのも放置する。刻みたいなら勝手に刻めばいい。こんなもの、大きな流れを記録する彼らにとって、すぐにも切り捨てられるだろう瑣末な愛憎劇に過ぎないのだろうから。
「俺には確信できんが、そうなんだろう? ならば呼んでやれ。――呼び戻す覚悟があるのならな」
 かつての救いようのない愚かで幼い子供たちは、どこへ行き着くのか。
 互いに足枷を外しあったというのに、再びそれに手を伸ばしている様に憐憫と慈愛を覚えながら、クロスはらしくもなく躊躇する子供の背を押していた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。