みつからない
下手に突いたり刺激をするつもりはなかったが、適うなら聞いてみたい。胸の奥で燻る思いに突き動かされて、アレンはついに意を決して問い質してみることにした。答えたくないというなら引き下がればいいし、教えてもらえたならば僥倖。そう思って向き合った神田は、しかし、予想外に静かな表情を向けてきた。
「あの、神田。ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「何だよ、改まって」
気色悪ぃ。そう吐き捨てる声は不機嫌そのもの。だが、アレンの真剣な表情を見て取ったのか、ただの気まぐれか。とりあえず、出会って一言目で切り捨てられることはなかった。
付き合いがそう長いわけではないが、初対面からして互いにそりが合わないことはわかっている。アレンとしては神田のことが決して嫌いではないのだが、肌が合わない。よって、問答が成り立つ予感のするこの機会がどれほど貴重なものかは明白であり、取るに足らないきっかけで棒に振らないうちにとアレンは本題を切り出す。
「“”って、どういう意味ですか?」
回りくどい前置きは不興を買うだけ。そう知っていたから、言い訳にしかならない修辞を一切介さない、玉砕覚悟の率直な問いかけだった。
緊張から弱冠早口になったことを自覚し、照れが半分、反応への不安が半分の心持ちで肩を竦めながら応えを待つものの、場には沈黙が降り積むばかり。地雷、もしくは逆鱗に近い部分に触れる予感はあった。だからこそ問答無用で六幻を叩きつけられる覚悟もしていたのだが、神田の反応はアレンの予想を大幅に剃れたところにあった。
息を吸い込む音がやけに耳につく。ひゅっと喉を鳴らし、呼吸ひとつで見開いていた両目を鋭く眇めた神田は低く問い返す。
「どこで聞いた?」
声は鋭かったが、どこかその話題に触れるのを恐れるような、普段の神田らしからぬ曖昧な気配が漂っていた。思いもよらぬ一面を垣間見て、アレンは内心、少なからぬ違和感に居心地の悪ささえ覚える。
「どこでそれを聞いたんだ?」
だが、慣れない空気に戸惑うアレンのことなど神田には構う気もない。畳み掛けるように問いを重ねられ、アレンは戸惑いながら「この間」と呟く。
「どこで? 誰に聞いたんだ?」
「この間。君が言っていたのを聞いて、それで気になって」
噛み合わない遣り取りに焦れたのか、掴みかからん勢いに圧され、誤魔化して振り切ってしまおうと考えていたアレンは言って良いものか迷っていた事実を言葉に載せていた。
聞き出した内容にそれこそ唖然と目を見開き、神田は喉の奥でくぐもった呻き声を漏らす。信じられない。そんな馬鹿な。表情からその内心を正確に汲み取り、アレンは申し訳なさにいたたまれなくなる。
微妙な内容だからこそ、周囲に聞き込むぐらいなら当人に問うてみようと考えたのだが、どうやら最悪の選択だったらしい。これでは嫌がらせに他ならないではないかと、好奇心に端を発した己の行動をアレンは悔やむ。
「神田、その……。余計なことを聞いてしまったようですね。すみません」
唇を噛み締め、地面を睨み据えている相手の目許をそっと上目遣いに見やり、アレンはぽつぽつと謝罪を紡ぐ。触れてほしくないと感じている領域に土足で入り込む気はなかった。それは紛れもない本心だ。ただ、耳慣れない単語にきっと彼の母国語だろうと当たりをつけ、本当に些細な好奇心を満たしたいと、気まぐれに思い立っただけなのだ。
ああ、これでまた彼との間に埋めようのない溝ができる。
無理にでも仲良くしたいと思ったことはないが、共に戦場を駆ける大切な仲間同士。いたずらに関係を悪化させるのは避けたい。親しくなることを相手が嫌がるのなら、せめて当たり障りのない関係を築きたいと願っていたのに。
情けなさから零れ落ちそうになった溜め息を無理矢理飲み下し、アレンはそのまま暇を乞おうと息を吸いなおす。
「それじゃあ――」
「名前」
僕はこの辺で。そう言い差した言葉は、硬い声に遮られた。告げられた単語の意味を把握しかねてまばたきを繰り返すアレンに、地に向けられていた蒼黒の双眸がゆるりと焦点を移す。
「“”ってのは、名前だ」
再び繰り返された声は、もう先ほどの不自然な硬さなど微塵も残していなかった。いつもの不機嫌ささえ取り払った、ただ静かな落ち着いた声音。低く単調に響く音は、持ち上げられた精緻に整った美貌とあいまって、ひどく浮世離れして感じられる。
「俺が、やつに見せられた……幻覚の。名前だ」
一言ずつ、確かめるように、噛み締めるように告げられたのは、予想される中でも最上級の答。何ひとつ誤魔化すことなく、真実を拾い上げて渡された。ただ、それが予想以上に重いものだったことを知り、アレンは胸中で歯噛みする。
その重みさえ、予想することは可能だったはずなのに、と。
内心を一切読み取らせない瞳は、底が見えないほどの昏い光を湛えていた。闇のような光、光のような闇。相反する性質を一緒くたにした印象は、夜空を思わせる瞳の色のせいなのか、それとも神田という人物のせいなのか。アレンにはわからない。ただ、見つめれば見つめるほど深く引きずり込まれそうな錯覚に、息を詰めて目を逸らす。
「聞きたいことってのはそれだけか?」
「え? ええ、はい」
「なら俺は行くぜ」
アレンの様子にはまるで頓着せず、あくまで自分のペースを貫く神田は既に見慣れたいつもの表情だった。面倒くさそうに一瞥をくれ、無駄のない動きで止めていた足を踏み出す。
対面する相手の纏う空気があまりにもくるくる変わることについていききれず、反応を返しあぐねていたアレンは歩み去る背中を呼ぼうとし、それから思い直して口を噤む。呼んで、どうするのか。謝りたいのか。礼を言いたいのか。それともより深いところに踏み込みたいのか。自分の気持ちが掴みきれず、困惑にただ頭を振る。
凛と伸びた漆黒の背が遠ざかる。その後ろ姿が寸分の狂いもなく見慣れたそれであることにほっと息を吐き、アレンは今しがたの問答には記憶の底で鍵をかけておくことを決意した。
Fin.