朔夜のうさぎは夢を見る

ほんとうのこと

 初任務から戻り、紆余曲折を経てようやく報告書を仕上げたアレンは、室長の許へ報告書提出のために赴いていた。相変わらず床にひどく散乱している書類を踏むのは気が咎めたが、他に道がない。なるべく被害が少なくなるよう気遣いながら司令室を奥へと進み、珍しく目を覚ましていたコムイにそっと紙の束を差し出した。
 リナリーからは提出してしまえばそれで終了だと聞いていたのだが、どうやらそうはいかないらしい。まあ座って、と。立ち上がるや手ずからコーヒーを注いでアレンに渡してデスク前のソファを示し、コムイはその対面で書類に目を通しはじめた。
 とはいえ、やることもなければ邪魔もできない。手持ち無沙汰に壁面を埋め尽くす書架を眺めやっていたアレンは、読み流しながら「どうだった?」と問われ、思わず言葉に詰まる。
「神田くん、いろんな意味でキツい人でしょ。だから単独任務が多いんだけど、エクソシストとしてはとても優秀だからね。学ぶところも結構あったと思うんだ」
 視線は上げないまま、コムイは世間話でもする調子で問いを重ねる。しかし、それは問いでありながら断言であり、アレンとて言われた内容には大いに同意せざるを得なかったため、悩みながら言葉を選び出す。
「……たしかに、未熟さを痛感しました。状況判断とか、見習うべき点は多かったと思います」
 そう、それはひどく癪に障りもするが、動かしようのない事実であった。どんなに感情的に反発しようと、今回の任務で神田が示した行動は、エクソシストとして模範的なものが多かった。


 冷徹なまでに任務に忠実な姿勢。己の立場と力量をしっかりと自覚した立ち居振る舞い。それに伴う覚悟と行動力。そのすべてがアレンに違和感と嫌悪感を植えつけると同時に、これこそがあるべき姿なのだろうと敬意を抱かせるに十分な貫禄を持っていた。しかし、それでもすべてを肯定するわけにはいかない。
「でも、それだけじゃないよね」
 つい口ごもってしまった瞬間を見計らうかのようにかけられた言葉に、アレンはぎくりと身体を強張らせる。声音に不満が出ていたかと内心で舌打ちする勢いのアレンとは対照的に、しかし、応じるコムイはそれまでとまるで変わらず、ぺらりとページをめくってのんびり言葉を紡ぐ。
「正直に言っていいよ。ここで話を聞いているのは、別に誰かを責めるためじゃなくて、エクソシストとしてのアレンくんを僕が知りたいっていう理由だからね」
 レンズ越しにのぞく双眸はあくまで穏やかで、紡ぐ言葉は真摯。それに後押しされるように、アレンは胸の奥でしこっていた思いをそっと舌に載せる。


 報告書はフォーマットが指定されているため、必要最低限の内容しか記されていない。それは、エクソシストの側から必要な報告をもらさないようにするための配慮であると同時に、常に情報が飽和している科学班に、あまり瑣末な情報を流しすぎないための配慮でもあった。報告内容は、遭遇したアクマのレベル、数、能力、それらとの戦闘内容、および事前調査の内容と現場での事実の照合と、相違点があった場合はそれに関する考察がメインである。
 今回の任務において、イノセンスの宿主であったマテールの亡霊からイノセンスを回収するまでのいきさつは、報告書の備考欄にアレンが書き足したものである。必要はないだろうと考えた。しかし、無視して、なかったことにはできなかったのだ。
「救いは、犠牲なしには得られないものでしょうか」
 思い返すうちに悔しさと憤りと哀しさとが蘇り、呻くようにしてアレンは思いの丈を目の前の上司へと訴えていた。それは、ひとりで汽車に揺られていたときからずっと、ふとした思考の隙間から囁きかけるひと言。漆黒のエクソシストが朗じた、あまりに悲しい覚悟。
 認められない、認めたくない。でも、それが事実の一端であると知っている。複雑に入り乱れる心中を押し殺し、アレンはコムイの返答を待つ。その言葉に、標を見出すかのような切実さをもって。
「いまは戦争中だからね。救いはともかく、犠牲はつきものだよ」
 そしてアレンに与えられたのは、静かな科学班室長の声だった。


 耳にした内容は、マテールにおいて神田から告げられたものに酷似していた。しかし、コムイの声は冷徹さの中にも痛ましさを含んでおり、何よりもその瞳が優しくアレンを見つめている。うっかり暴発しかけた感情は、それを見ることで冷静さを取り戻す。
「そう、ですよね」
 ひとつ深呼吸を挟み、アレンは諦念を言葉に篭めた。自分たちが参加しているのは戦争であり、勝ち進むためには割り切らなくてはならないことがある。それは、今回の任務を通じてアレンが神田から学んだ最も大きなことのひとつだ。
 だからといってすべてを踏みにじってただ勝利だけを見ていることが正しいとは、どうしても思えない。思えないけれども、でも、どうしようもないと誰もが言うのなら、自分の思いは自分の中でのみ貫かざるをえない。葛藤を無音の決意に変換し、ぎゅっと体の側面で両手のこぶしを握り締めたアレンに、しかし、意外な反応が与えられる。
「神田くんが何か言ったの?」
「ええ、そうです」
 あまりにも淡々と、絶対的な強さをもって告げられたため、てっきりそれは神田の信条であり口癖のようなものなのだろうと推測していたアレンは、確かめるようにかけられた言葉に頷きながら小首を傾げ、脳裏でかの青年の硬い声音を思い返しながら単語をなぞる。
「犠牲があるから救いがあるんだ、と」


 自分で反芻した単語に、何か思うところがあったのだろう。必死に表情を押し殺しているアレンを静かに見やりながら、コムイは椅子の背もたれに体重を預ける。そっか。ぽつりと落ちた声は、何の色も含まないただの相槌。それから、困ったような悲しむような、複雑な笑みを浮かべてコーヒーを啜り、科学班室長はそっと瞑目してから言葉を選び出す。
「犠牲があるから救いがある、って思っているよりもね、救いのない犠牲を出したくない、って思っているんだよ。きっと」
 ゆっくりと目を開けながら発した言葉は、聞き手たる少年に、どうやら想像以上の衝撃を与えたらしい。口を僅かに開き、両目を大きく見開いている様子に微かな苦笑を返し、コムイは記憶を辿る。
「ここにいる人間は、大概がそうだけどね。神田くんもやっぱり、どうしようもない“何か”を抱えてここにいるんだ」
 それは、記憶と呼ぶには生々しく、思い出と呼ぶには実感の乏しい過去の記録。意識しなければ思い出すこともできなくなってしまった、近くも遠くもない日の出来事。
「誰のせいでもないのに、神田くんのことだ。きっと、今でも自分が許せないんだろうね。だから、ますます自分に厳しくなって、そうして求めるものがとっても厳しいものだから、周りにも厳しくならざるを得ない」
 昔語りに意味はない。そして、今自分が紡いだのは単なる憶測でしかなく、自分自身への言い訳が多分に詰まった戯言でしかないけれど。


 そっと自嘲の笑みを口の端に載せ、コムイはひとつ頭を振ることで思考を入れ替える。
「アレンくんは、エクソシストとしてどう在りたいの?」
「……どうしようもない犠牲は理解しています。それでも僕は、誰かを救える破壊者でありたいです」
「うん、ならばそれを目指せばいいよ。神田くんには神田くんの譲れない信念があるし、アレンくんにもそれがある。それでいいんじゃないかな」
 宣言されたのは、あまりにも綺麗であまりにも優しく、そして少年を追い詰めるだろう残酷で悲壮な願いだった。直接戦場に赴いたわけではないから、コムイには推測することしかできない。それでも、多くのエクソシストを多くの戦場に送り出す身として、それがいかに辛い道であるかを正しく予想することができる。だから、彼の決意を受け止めると同時に、重苦しい溜め息が唇を擦り抜けるのを止めることはできなかった。
 任地では神田に散々苦言を呈されたのだろう。あっさりと承諾したコムイをまじまじと見返すアレンに苦笑を返し、コムイは軽く頷いてみせる。
「押さえるべきところを押さえていてくれたら、僕は何も言わないよ。自分の信念に従って進めばいいさ」
 実際に最前線で己の命を懸けているのはエクソシストだ。その彼らが戦場に立ってなおと決めた道行きを阻む権利は、たとえ彼らの上司であるコムイにもない。ただ、司令官として下す指令を全うしてもらえるなら、後は彼らの心のままに振舞わせることこそが最善であると考えている。それこそが、コムイの押さえるべきところを押さえた上での信念だ。


 そして、科学班室長としての言葉をアレンが受け止めたことを確認して、コムイはコムイ・リーとしての言葉を継ぎ足す。
「ただ、ひとつだけ。事情を知っている立場としてわがままを言わせてもらえるなら、できれば神田くんの言ったことを完全に否定はしないでほしい」
 きっと、それが精一杯の悲鳴なんだ。声には出さずそっと呟いて、コムイは歪む口元をカップで隠す。
 わかりにくいことこの上ない青年の真意を正しく汲めている人間は、いったいどれほどいるだろう。周りの誰に理解されなくともただ我が道を貫く神田は、きっとコムイがこんなことを言っていると知ったらばそれこそ烈火のごとく怒るに違いない。それでも、コムイはアレンに自分の読み取った神田の思いを伝えたいと願う。
「神田の言い分はわかっています。僕とは考え方がかなり違うけど、否定する気はありません。大丈夫です」
「うん、ありがとう。ごめんね、わがまま言って」
 ひたと見つめた先で、銀灰色の瞳はそっとやわらかく和む。穏やかに紡がれた声に嘘や強がりはない。年若い少年が、あの不器用な青年を少なくとも完全に誤解していないことを悟って、コムイはなんだか泣きたい気分に駆られる。


「気持ちはわかりますから。それに、もし神田が今コムイさんが言ったような意味であの言葉を口にしていたなら、僕も大人気なかったと思うし、救われます」
 そうなのだ。結局、同じ戦場の同じ位置に立つもの同士が、こうして一番分かり合える。逆に言えば、そこに立てないコムイたちは、結局どうしたってその心の内を手探りで推し量ることぐらいしかできないのだ。
 胸に迫るものに呑まれ、一歩間違えば湿っぽくなってしまいそうな空気をなんとか払拭しようと、コムイはあえておどけた声を紡ぎだす。
「神田くん、不器用だから」
「不器用っていうか、バカなだけですよ、あの人」
「あははっ、そうとも言うかもね」
 でも、本人の前では言わないようにね。じゃないと六幻で斬られちゃうよ。
 そう混ぜ返す頃には、コムイの笑顔は穏やかでいつも通りで、ほんの少しだけ垣間見えたアレンの知らない過去はあっという間に日常に埋没していった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。