朔夜のうさぎは夢を見る

二日目の朝

 常と変わらない声は、躊躇の残る二人の背を優しくも強く後押しする力に満ちていた。振り返ってはならないと言い渡されていたから、視線は前に固定したまま。あらかじめ打ち合わせていた通り、足音を殺して木立を奥へと進むその背を見守る視線は暫しを挿んで外され、あっという間に気配が消失する。
 そして上がった轟音が、戦闘の開始を告げる。遠く背後に隔たったそこから地を伝ってくる微細な振動に神経を尖らせながら、二人は黙って足を運び続ける。
 音にしてしまいたい、しかし許されないと知っている謝罪の文句が少女の喉奥に蓄積されていく。少しでも気を緩めれば何がしかの形をとって溢れ出てしまいそうなそれらに、息を詰め、眉間にしわを寄せ、大地を踏みしめる足に篭める力へと換える。
 繋いだ指先にだけは震えのひとつも許すまいと神経を張り巡らせていた。だというのに、幾度目かの言葉を呑み込んだ瞬間、導く少年は手に力を篭めてくんと少女の腕を引く。はっとして視線を上げた先には、揺るぎなく前を見つめる背中があるのみ。指の関節が白くなるほど強く刀を握り締めて先を行く少年には、振り向くことを堪えている気配などなかった。


 身を潜めたのは木立の中。息も気配も極力殺し、梢の合間から上空を見やれば数体のアクマが低空を巡回している。遭遇したアクマの群れはこれまでにない規模の大きさであり、正面突破を早々に諦め、戦略的撤退を図ったのが昼過ぎのこと。木々の影に紛れることで追撃を免れはしたが、どうやら逃してくれるつもりはさらさらないらしい。とっぷりと日が暮れた今も、数に物を言わせた広範囲の索敵網から彼らは逃れられずにいる。
 厳しい表情で何ごとか考え込んでいたその人は、不安げに己を見つめる少女と隙なく周囲を窺っている少年を呼び、「二手に分かれよう」と提案した。
「私一人ならば、奴らを倒しながら抜け出すことも可能だがね。正直なところ、お前たちを守りながらでは分が悪すぎる」
 咄嗟に反論しようとした神田を視線でいなし、冷然と放たれたのは、事実を飾らず告げる言葉だった。


 幼少時から剣術を学んでいたことが幸いし、戦力としてはまだ不足するものの、守勢に徹すれば自衛に足るだけの実力を神田は培っていた。しかし、アクマと戦う術を持たないは完全な足手纏いにしかならない。ぐっと唇を噛んで地を睨む神田の隣、逃避行の開始からずっと顔色を失っているへと視線を固定し、その人は表情をやわらげる。
「勘違いしないように。私は、お前たちが重荷だと言っているわけではないよ。全員でこの状況から抜け出す最も安全な策を提案しているんだ」
 わかるね。宥めるようにかけられる声に、偽りの気配はなかった。安っぽい同情心も安易な憐憫もそこには存在しない。ただ単調に、その人は事実と現実を見つめて言葉を編み上げていると、少女も少年も過ぎるほどにわかっていた。
 武器を手にしていないことは、少女の責ではない。アクマと戦うために必要な武器はごくわずかにしか存在せず、担い手を選ぶのだから、人の身ではどうしようもない。だから、戦う術を持たないことを苦に思うことはない。
 その代わり、できることを精一杯やりなさい。望むならば教えるし、己の領分を正しくまっとうしているなら、拾った以上、責任をもって守るから。
 それが、その人の口癖だった。
 その人が二人に対して黙していることが多いのは明白だったが、偽りを示すことだけはなかった。事実、二人はその人に守られ、導かれて今日までやってきたのだ。


 それでも、現状と自分の立場に思うところがあるのは変わりない。せめてこれ以上要らぬ時間を自分のために割かせないよう黙って視線を伏せたに代わり、視線を上げた神田が声を絞り出す。
「二手に分かれて、具体的にはどうするんだ?」
「私が戻って奴らを引きつけるから、お前たちは先にお行き。適当なところで身を潜めて、夜が明けたらば山を越えなさい」
「アンタは?」
「片付けてから追いかけるよ。次の町への行き方は覚えているだろう?」
「……海沿いを北へ、だったな。そこで合流か?」
「私が陽動に回れば、移動に伴う危険も減るからね」
 あっさりと示された指示に、神田は思い切り柳眉を顰める。しかし、今度はいなされるまでもなく、不満も反論もすべてを溜め息に篭めて吐き出すに留めた。経験が浅いながらも、それこそが最も確実な方法だと察することができないほど現実を楽観してはいない。
 びくりと肩を揺らして完全に硬直してしまった傍らの少女には何も言わずちらりと一瞥を送り、神田は腰に佩いた刀の柄を強く握り締める。


 日頃は不気味なほど器用に表情を取り繕ってみせることも多いのに、肝心要の局面で信じられないほどあけすけに内面を曝け出してしまうのがだった。不安と、自己を呪詛せんばかりの気配を溢れさせ、それを必死に掻き集めて隠そうとしている不器用な細い肩に、その人はふっとやわらかな苦笑を送る。
「予想も覚悟もできていただろう。何も今生の別れではないのだから、そう悲観することもないさ」
 そして、地に置いてあった荷物から布包みを取り出し、俯いたままの少女の眼前に突き出した。反射的に顔を上げたの無言の問いかけに答え、その人は包みを少女に押し付けながら口を開く。
「いつか話したね。これが、それだよ。私の命であり、希望と絶望の証左だ」
 腕の中に質量以上の重みを抱いたことを知った少女はひゅうっと喉を鳴らして息を呑み、少年もまたまじまじとそれとその人とを見やる。
「いいかい、町に着いたら、港に一番近い酒場に行くんだよ。そこの主は、大陸と船の遣り取りをしていると聞く。教団に行きたいと言えば、きっと船に乗せてくれる。渋られたら、刀のことをお話し」
 俯く少女のためついた膝をそのまま、その人は神田とを交互に見ながら口早に言葉を継ぐ。


「私もなるべく急ぎはするけど、まずは船を優先するんだ。大陸に渡ればきっと教団関係者がたくさんいるだろうから、その人たちの指示に従いなさい」
 戦闘時と同じほどの真剣な眼差しに射竦められ、二人は返す声もなくその人の声を聞いていた。
「大局を見誤るのではないよ。刃の切り裂くものを知り、己が宿業から目を逸らさずにいなさい」
 いつでも生きることを考えていなさい。死を想うにはお前たちは幼すぎる。振り向くことは許されない。たとえ何を切り伏せても、すべてを踏み躙って前進することしか許されない。力を願い、手にするとはそういうことだよ。覚悟が揺らいだなら、刀など捨てておしまい。それは、恥ずべきことではないのだから。
 一語一句違うことなく二人の頭に叩き込まれてしまった口上を述べていたその人の細められた双眸が不意にゆるりと笑みを浮かべ、持ち上げられた指先がつとの抱える布包みをなぞる。
「これのこともあるのは事実だけど、それ以上に、お前たちは私の希望なのだよ。愛しい子供たち。それを忘れないでおくれ」
 それはさながら遺言のように。今生の別れではないと言ったその口で、その人は再会の適わない未来を確信している。
「……追いつくんだろ?」
「適うならね。でも、適わないとわかっていて無理をしようとは思わない」
 だからそれを預けるのだよ。くすりと笑って答え、その人はすっと立ち上がった。


 なにげなく上空に向けられた視線は、ひどく怜悧な光を弾いている。呼吸をひとつするごとに神経を研ぎ澄ませ、戦闘に備えて感覚を昂らせていく。
「私は戦場にしか生きられない。そしてお前たちは戦うことを選んだ。ならば、いずれどこかしらで再会するのは必定」
 視線を二人に戻し、冴え冴えと、その人は笑ってみせた。
「存外船で合流するかもしれないしね。余計な心配は要らないよ。――散る時まで、私は死ねないのだから」
 笑みは深遠。いつかの夜、抱き続ける渇望を二人に告白したときと同じ表情を浮かべ、その人は手の中で眠っていた武器を起こす。
「願いを、叶えてくれるのだろう?」
 夜闇の中、蒼白く存在を主張する武器に照らされた横顔は穏やかだった。
「できねぇなら、約束なんかしねぇよ」
「ああ、そうだね。だから、生きなさい。再び会う時まで、決して死ぬのではないよ」
 覚悟を受け取り、覚悟を決めたのか。それまでの不安定な気配を払拭して不遜に宣言した神田に心底嬉しそうな笑みを向け、その人は窺う表情をへと流す。
「お預かりします」
「頼んだよ」
 向けられた視線をようやくの思いでまっすぐ正面から受け止め、は腕の中の包みを大事に抱えなおす。それを切なげに見やり、その人は表情を引き締めた。
「さあ、行きなさい」


 促され、夜目の聞く少年に手を引かれて山道を駆けながら、は腕の中の包みを抱きしめる。揺らぐことを許そうとしない伸びた背筋は、少年の覚悟を物語っていた。それを見やり、握り締める指の強さを感じ、少女は未だ燻り続ける感情と喉の奥でわだかまっていた謝罪の文句を無理矢理掻き消した。そして、代わりに思い浮かべる言葉に覚悟を篭める。
 希望の証、絶望の象徴、約束の楔。預かったのは、あるべき場所、持つべき人へ返すため。なすべきことを見定めれば、後悔をしている余裕などあるはずもないのだ。
 きっとあの人は間に合わない。死にはしないだろうが、同じ船に乗ることもないだろうと、なぜか奇妙な確信があった。だからこそ余計に抱く腕には力が篭もる。それは、哀しいほど残酷にあの人の存在を教えてくれるものだから。
 低木の陰で交互に仮眠を取って夜明けを迎え、アクマの襲撃もなく辿り着いた町の酒場で、二人は大陸に渡る船の切符を手に入れる。そして出発の朝、待ち人の現れなかった港を背に、二人は無言で故国を後にした。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。