独りじゃないと言って
「お前が手にしたその剣には、神の結晶が宿っているのだよ」
ゆるりと言葉を紡ぎ、神経質そうな細い指が示したのは神田が抱き込んでいた漆黒の刀。ちらと向けられた視線に「黙ってお聞き」との意を汲み、神田は喉元までせりあがってきた疑問の言葉をぐっと飲み込む。表情は穏やかだったが、その視線には有無を言わせぬ強さがあった。
神の結晶、適合者、アクマ、千年伯爵、暗黒の三日間。子供に聞かせる夜伽話にしかならないような荒唐無稽な物語を、その人は淡々と語った。馬鹿馬鹿しい。それが神田の抱いた素直な感想だった。しかし、突飛な妄言だと切って捨てるには、神田もも、その突飛な妄言に即する事実を知りすぎていた。
人の姿で人に紛れ、唐突に牙を剥く悪しき異形。抗う術のない一方的な暴虐。それに抗しうる武器と、武器を振るう存在。すべては昨夜、神田自身が体現し、駆け抜けた事実。が見届けた現実。
眉間にしわを寄せて手の中の刀を強く抱き込み、少年は胸の内で説明を反芻する。信じがたい、しかし否定する要素の存在しない知らなかった現実。ではその説明のすべてを事実と認めたとして、得られる結論は何か。見えているはずなのに靄がかかったようにうまく掴めないそれに、神田は歯噛みする。
その感覚は、逃れようのない現実を前にして、恐れ、逃避を願う本能が体の奥底で叫んでいるときのものだ。何事においても背を向け、逃げ出すことを厭う少年は、己の不甲斐なさに舌打ちを漏らす。
自分はいい。戦うための武器を手に入れ、己の命を繋がれたことへの対価として、生き延びるため、戦うことを自らの意思で覚悟した。だが、その道は戦う術を持たない人間を巻き込めるものではない。手の届く場所にいたいと、喪いたくないと、そう願って手にした刀だというのに、傍にいて護ることはすなわち、力を持たない人間を戦場に巻き込むことに他ならないのだ。
示された道は二つ。武器を手にし続けるか、放棄するか。
知ってしまった以上、知らなかった頃には戻れない。選択の余地なく、迷うことも怯えることも知らずに未来を妄信して進むことはできなくなった。せっかく温かな食事で身体をぬくめたというのに、指の先から冷たい鉛でも流し込まれたように重く凍えていく感触に、は思わず肩を震わせる。空気の揺らぎに気づいたのか、視線を向けてそっと宥めるような表情を浮かべ、その人は続けた。
「拾ったからには、私はお前たちにみすみす死んでほしくなどない。だから、お前たちさえ望むなら、身を護る術を教えようと思う」
「……武器を持っていなくても、身を護れますか?」
「完全に、とは言わないよ。でも、お前は徒人とは違うようだからね。私の知っている呪術を身につけられるだろう」
縋るように問いかければ、単調な、しかし偽りのない誠実な声が返される。それにほっと息を吐き、黙り込んで何事か考えている少年を横目に、背筋を正して少女は凛と声を張る。
「お願いします」
言って綺麗に頭を垂れ、は選び取った道へと足を踏み入れる。
驚きに満ちた表情を隠しもせず振り向いてきた少年に困ったように笑いかけて、はそれでも決意を揺らがせたりはしない。
「私、まだ死にたくないの」
お前はそれでいいのかと、雄弁に語る瞳に応えて少女は静かにその思うところを言葉へと変換する。
「身を護る術を教えてもらえるというなら、ご厚意に甘えたいわ。そうしたら、まだあなたの傍にいられるかもしれないから」
いつも、いつでも半歩先を行くのはまっすぐに伸びた背中。気づけばいつでも目で追っていて、少し離れてついていくのが常となっていた。近くにその気配があれば心が落ち着くし、ふらりと傍にやってきて時間と空間を共有してもらえるのが嬉しかった。
その背を見て歩いていたからこそ、彼の道行きを阻む存在にはなりたくなかったし、自分の足でついていけることこそが彼女の誇りだった。だから、傍にいたいという願いを満たすためには、彼を追いかけるための力が必要なのだ。
沸きあがる笑みは自然との唇を吊り上げる。そうして浮かべられたのは、どこまでも深く、静謐な笑み。
「いつか言ったでしょう? 私はあなたと同じ強さを手にすることはできないけれど、あなたの傍にいたいの。邪魔はしないわ。邪魔になったなら、いつでも切り捨ててくれればいい」
「……戦うってことは、それだけ死に近づくってことだぞ。恐くはないのか?」
「恐いわ。でも、それはどっちにしたって同じ。知ってしまったんですもの」
呻くように落とされた問いは、ひどく真剣に少女の身を案じる視線と共に向けられる。それをあっさりと肯定し、返す言葉でばっさりと切り捨てて、はいっそ艶やかに笑ってみせた。その表情にわずかに目を見開き、それから神田は呆れとも諦めともつかない、どこか温かな溜め息を深々とこぼす。
微かな苦笑を刷いていた口元をきりりと引き結び、神田は読めない表情で二人の遣り取りを見守っていた影に向き直った。
「俺の意見も変わらねぇ。アンタが俺の命を繋いだことへの対価を払う。そのためにも、この先を生き延びるためにも、俺はこの刀の担い手として契約を続行する」
粛々と紡がれたのは覚悟の誓言。見つめてくる二対の黒い双眸にそっと瞳を眇め、影は悲しみと喜びをないまぜにした表情を返す。笑みというにはあまりに歪で、泣き顔というにはあまりに明るい、複雑な表情。
「お前が指摘したとおり、私には私の思惑があってお前たちを拾った。それは紛れもない事実だよ。だけど、純粋にお前たちを助けたいと思ったというのも事実なんだ」
だから、まだ私の思惑は教えないでおこう。お前たちがもっと深く世界を知って、その時になって選んだ道が私の思惑に繋がっていて、そしてお前たちに相応の力があったなら、私は私の理由をお前たちに託すよ。
切なく張り詰めた声で囁くように告げた影は、にこりと不器用に笑いながら瞳の奥の光を和ませる。付け加えた言葉は、想定して用意していたものとは裏腹。早々に告げてしまうつもりだった理由に蓋をしたのは、久しく忘れていた胸の奥で疼く感慨。
それぞれに覚悟と誠意を滲ませた表情で影の言葉を受け止めた幼い二つの命。自分の欲望に巻き込むことを忍びないと感じてしまうほど、己の手で時間を繋いだ子供たちがたまらなく愛しく思えたのだ。
Fin.