はやくはやく
エクソシストは形式ばかりの聖職者であり、黒の教団は決して敬虔な神の信徒の集まりではない。その成り立ちゆえにヴァチカンに所属しているが、蓋を開ければ単なる軍事機関。用兵の寄せ集めと言っても過言ではない。
ゆえに、黒の教団の所属者に戒律の縛りはない。無論、集団として、軍事機関としての規律はあるが、たとえば質素倹約だの婚姻の禁止だのといった戒めの対象にはない。もっと言ってしまえば、所属者の中には異教徒や無神論者もいるのだ。
そんな中のひとりであるコムイにとって、ヴァチカンの意向だの戒律だのはさほどの意味を持たない。教養として、上層部と接するための礼儀として嗜んではいるが、拘束力のないそれはただの文字の羅列。だが、仮にも神父の称号を持つ人間が無神論者であるコムイ以上にその戒律から隔たった生活を送るのはどうか、とは思うのだ。
人気のない深夜の廊下で行き会った相手の手に握られているのが年代もののヴィンテージ・ワインであることを見て取り、コムイは深々と溜め息を落とした。出所は食糧貯蔵庫に備えつけのワイナリーに違いない。あそこには、中央から上層部の面々が訪れたときのためにと、もてなし用の上等な酒が常備されている。
「それ、僕らのような下々のモノが手出ししていいものじゃないんだけどな」
「命張って働いてるんだ。このぐらいの娯楽でガタガタ言うなよ」
嫌味と皮肉を篭めての言葉には、さらりと猛毒が返された。それは真理にして現実。地位だの権力だのを笠に着るのはコムイの好むところではないが、驕るでもなく卑屈になるでもなく、あっさりと告げられた事実には反論のしようがない。もっとも、だからこそコムイははじめから文句を言うだけで、決して相手の行動を阻んだりはしない。
「お前も飲むか?」
溜め息ひとつで諦めを提示したコムイに、しかし、相手は思いがけない提案を投げかける。
「辛気くさい顔しやがって。素直に告白すりゃ、赦してやらないこともないぜ」
神父は、極悪な笑みを浮かべて尊大に言い切った。
懺悔の場は告白室と相場は決まっているのだが、型破りの神父に常識を説いても仕方ない。酒瓶の散乱する豪奢な部屋で向かい合い、もったいないと思いつつ口に含んだアルコールは深く豊かな味わいをもってコムイの内腑に染み渡る。
「あの小娘がハズレだったことが、そんなにショックだったか?」
口腔に残る酒精の余韻を絡め、クロスは意地悪い声を歪めた唇から吐き出した。
「……そんなんじゃないよ」
言葉に詰まり、それからわずかの間を置いてコムイはゆっくり答を紡ぐ。
「ヘブラスカにも言われていたからね。ダメでもともとのテストだったんだ」
「それにしちゃ内心の動揺が隠しきれていないぜ、室長殿?」
嗤い混じりに嘯き、干したグラスにワインを注ぎ足しながらクロスは続ける。
「不公平だと、そう思うか?」
低く響く声はいっそ荘厳。湛える空気の深さといい、時おりコムイはクロスが聖職者であることを強く意識する。酒好きで女好きで奔放で、それでも誰よりも強く神なる存在を意識させる空気を決して濁らせない。そして、そういった一面を見るたびにコムイはクロスもまた徒人には手の届かない、神に選ばれた存在だと再認識するのだ。
問いの内容はひどく残酷だった。事情を知らないものは決して問わないだろうし、知るものはなおのこと問わないだろう。鋭く、嫌な点を抉るものだ。反射的に沸き起こる負の感情を殺しきれず、思わず表情を歪めながらもコムイは平常心を保つことを意識しながら口を開く。
「たとえ感じたとしても思わないよ。絶対にね。それだけは思ってはいけない。選ばれたものにも、選ばれなかったものにも、最低最悪の侮辱にしかならない」
ひと言ずつ、自身に言い聞かせるように、噛み締めるように舌に載せる。なぜと、それは神の結晶に関わったものが少なからず抱く思いに他なるまい。
あの子が選ばれてほしくなかったのも事実ならば、あの子が選ばれず絶望していたのも事実。双方を知っていればこそ、コムイは感情を加速させる行為を決して選ばない。理不尽な八つ当たりを表に出すには、大人になりすぎたし、事情を知りすぎていた。
もっとも、それだけではクロスが引き下がらないこともコムイにはわかっている。そうでなければ、わざわざ年代もののワインを他人に分け、あまつさえ自室を場として提供するわけもない。そこまで神父の興味を引くような態度を取っていたのかと、なかば自棄にも近い気持ちでコムイは口を割る。
「元々焦っているみたいだったところに、なんだか拍車をかけちゃったみたいだなぁ、と思ってね」
グラスに残った液体をぐるぐると回しながら、コムイは大きく溜め息を吐き出した。懺悔を聞くと言ったのはクロスだ。ならば、たまには神父らしく悩める子羊の言葉に耳を傾ければいい。八つ当たりに似た衝動は、蟠っていた思いを単語に変換する起爆剤となる。
「何を抱えているのか、何に焦っているのかはわからないけど。どうにも引っかかるんだよ」
己が適合者であり、エクソシストになるべしと告げられた人間の反応は大きく二つに分けられる。一方は忌避するものたち。戦場に追いやられることに強い拒絶を示し、何かしらを対価に渋々団服を纏うもの。もう一方は歓喜するものたち。アクマと戦えることに深い喜びを覚え、武器を携え勇ましく団服を纏うもの。
その母国と戦闘への意識の高さから、コムイは新しく迎えた適合者の少年を後者であろうと判断していた。どうあっても戦場に立たなくてはならないのなら、前向きであるに越したことはない。その方が後々の精神的ダメージも少ないだろうし、ケアもフォローもしやすい。だが、その推測がどうも少しずれているらしいことに気づかされたのだ。
戦場へ目を向け、一刻も早く駆け出していきたいと雄弁に語る意志の強い双眸。生と死のせめぎあう現実を知っているものに特有の昏く怜悧な光の奥に、また別の光が潜んでいる。その二種類の光が真逆とも思える子供たちの中でぴたりと重なることに思い至った途端、これまで意識の表層に上ることのなかった違和感があっという間にその触手を伸ばしてきた。それは、背筋が震えるような直感の瞬間だった。
「はじめは、アクマと戦えるようになることを焦っているのかと思ったんだけど、それ以外にも何かありそうなんだ。あの子たちは、戦場に焦がれているように見える」
そして、そこに立てるのが一方だけと確信したことで、彼らの中の何かが切り替わった。何かが一段、どこかに押し上げられたのだ。
改めて口にしてみれば、どれほど異常なことかが思考の隅々まで染み渡る。死地に焦がれるなど、まるで、死を希求しているようではないか。
そのまま揺らすことをやめたグラスの水面をじっと見据えるコムイに、クロスは気だるげに息を吐き出しながら言い返す。
「お前、エクソシストに何を求めている?」
ぴくりと肩が揺れ、水面がさざなみを立てる。それでもコムイは何も言わない。
「型に当てはめようとするな。戦場に焦がれる? 大いに結構。ならばさっさと戦場に送り込んでやれ」
神に憑かれし使徒に、常識など通用しない。皆どこかが破綻していて、どこかが狂っている。さもなくば常時すべての人間を疑って生きるなどという道行きに、耐え切れようはずもない。うっそりと嗤いながら、クロスは言葉を織り上げる。
「自殺志願者ってわけじゃねえ。むしろ、命に終わりがあることを知っていればこその焦りだろうよ。悔いのないように生かせてやれよ」
そして悔いのないように逝かせてやれ。それこそが、アクマを生み出さないための最良の手段。揶揄に揺れる声でありながら、それは戦場に立つものが紡ぐからこその重みに満ちた箴言だった。
声の余韻が静寂に消えるまでの時間を置き、コムイはすっかり体温の移ってしまったワインを飲み干す。まとまらない思考と感情と締まらない表情はすべてアルコールのせいにすることにして、そのままボトルを持ち上げた神父に空になったグラスを突きつけた。
Fin.