朔夜のうさぎは夢を見る

脳裏をよぎるもの

 遠くから響く地鳴りに、リーバーは溜め息をひとつ落として手元の書類から視線を引き剥がした。今日は科学班に実験の予定はなかったし、単独で実験を行なう可能性のある科学班室長は司令室。となれば、残る可能性はわずかなもの。だが、それが夢であってほしいと切実に願うから、あえて答のわかりきった確認に縋る。
「教団にいるエクソシストは?」
 力ない声には、一休みしていたのかカップを片手に通りがかったジョニーが軽やかに応じる。
「ティエドール部隊が帰ってきたらしいですよ」
「と、いうことは? この爆音は誰の仕業だ?」
 確認などいらない。必要ないのだが、それでも自分ひとりで現実に辿り着くのはなんとなく癪なので、周囲を巻き込む。答を聞きたくないと雄弁に物語る声での問には、しかし、容赦のない事実が突きつけられる。
「そんなの、神田の他にいるわけないじゃないですか」
 遠い目をして壁の向こうの音源を透かし見ながら、科学班室は大量の溜め息により一気に二酸化濃度を上昇させる。が、何がどうなろうと事実は事実。動かしがたい、できるなら直視したくない現実と向き合うべく、リーバーはのろのろと椅子から立ち上がった。


 爆心地は、さながら戦場真っ只中といった様相を呈していた。
 響く怒号。崩れ落ちる瓦礫。立ち込める砂塵。すっかり見晴らしの良くなった廊下は、野次馬でごった返している。隙間を縫うようにして人混みを掻き分け、進んだ先には目当てのうちのひとりの後ろ姿。
「ティエドール元帥」
「あれ、リーバーくん。ごめんね。ウチの子たちが、ちょっと騒ぎを起こしちゃって」
 うるさかったかな、と穏やかに微笑む様子は人のよさそうなただのおじさんだが、このとんでもない騒ぎを「ちょっと」という一言に括ってしまえるあたり、ただのおじさんではすまされない。曲者ぞろいの教団の、個性派の粋を集めたエクソシストの、さらに生え抜き。既に崩壊しつつある常識の基準値を忘れないよう必死に己に言い聞かせながら、リーバーは現状把握よりも事態の収拾を優先する。
「止めてもらえませんか?」
「自主性を重んじてあげたいんだけどなぁ」
 でもまあ、これ以上被害が出たら、ちょっとまずいよね。ひとりでそう納得しながら億劫そうに両手を口元に当て、元帥はのんびり声を上げる。
「そのぐらいにしておきなさい! ユーくん!」
 呼びかけには返事ではなく殺気に満ち満ちた攻撃が返される。しかしそれを気のない動作であっさりと受け止め、あまつさえ鈍い打撃音の下、一撃で沈めるのだからやはり腐っても元帥か。リーバーが恐々として見やる先で、ティエドールは遅れてやってきた弟子たちに片手を突き出し、首根っこを摘んでぶら下げていた少年を医療班室に運んでおくよう指示を出した。


 場に集っていた団員たちに片づけを任せ、リーバーはティエドールを司令室へといざなう。道すがらすれ違う団員たちに穏やかな笑みを振りまく元帥は人格者としても有名だというのに、その下について修行を兼ねた旅に出ている神田の性格が、会うたびに過激になっているように思えるのは気のせいだろうか。つらつらと考え込みながら歩いていたリーバーは、思いもかけず呼びかけられてびくりと肩を揺らす。
「おや、驚かしてしまったかな?」
「いえ、考えごとをしていたもので。申し訳ありません」
「いやいや、構わないよ。君たちにたくさん考えてもらうから、エクソシストは戦いに専念できるんだしね」
 穏やかにそう労ってもらっても、胸に蟠るのは奇妙な後ろめたさだ。それでも結局、命懸けの、一番キツイ仕事はエクソシストにすべて任せきりになってしまう。年齢も、性別も、すべてを超えて、ただ神の結晶に選ばれたという事実だけで。
 苦い思いと同時によぎったのは幼さの抜けきらない二人の適合者の顔。あの少女も、あの少年も、人生で最も楽しいと謳われる年代に足を踏み入れたばかりなのに。


 むっつりと黙り込んでますます空気を沈み込ませる科学班班長に、ティエドールはふっと小さく息を吐いてから口元に微かな苦笑を浮かべる。
「これは、独り言なんだけどね」
 そして元帥が思い浮かべるのは、過ぎるほどひたむきで不器用な子供の、凛と伸びた背中。何事にも、何者にも屈すまいと、ひたすら立ち向かうことしかわかっていない哀れな旅人。
「私はね、君たち以上にあの子の隣にいた子を知らないんだよ。なにせ、会って一日もしないうちに別れたわけだからね」
 のんびりと呟く視界の隅で、リーバーはそっと視線を伏せた。悼むように、愛おしむように。そうやったリーバーが透かし見る情景を、ティエドールは知らない。知らなくて良かったと思う。
「だからかな。私はあの子のことを、ただ素直に可愛がることができる。何かに気負ったり、誰かに気遣ったりなんかしなくてすむ」
 きっぱり言い切り、静かで真剣な表情を向けられ、リーバーは思わず息を詰めた。


 言い知れぬ威圧感に呑まれて思わず止まってしまった足に、ティエドールもまた半歩先で立ち止まって振り返り、レンズの向こうの瞳をやわらかく和ませる。穏やかで、静かで、清濁すべてを受け入れるような深い瞳。ここに至って、リーバーはふと少し前のコムイとの会話を思い出す。そういえば、コムイは神田の師にティエドールが選ばれたことに安堵していた。上層部には、できればティエドールかイェーガーのどちらかの元帥を、と申請していたというのだ。
「まあ、不器用な子だからね。極端な、しかも捻じ曲がった形での表現が多いけど、随分と素直にぶつけてくれるようになったよ」
「さっきのも、その一環だと?」
「うん。君たちには、ちょっと迷惑をかけちゃうけどね」
 心底嬉しそうに言われて、思わず問い返せばいっそ無邪気な肯定が返ってきた。本音としてはちょっとどころの迷惑ではないのだが、ティエドールの目の奥には相変わらずどこか真剣な光があり、安易な否定を許さない。リーバーたちの目の届かない世界を旅する間に、あの少年はもしかして、知るものにこそ見せられない何かを少しずつ昇華していたのだろうか。
「だからね、申し訳ないけど許してくれないかな。その代わり、君たちが躊躇してしまう部分まで、私があの子を甘やかしてあげるから」
 ね、と笑いかけてから、ティエドールは踵を返してゆったりと歩きはじめた。その背を見るとなしに見やりながら胸の内で言葉を反芻し、リーバーはその場で頭を下げて声を絞る。
「俺に言えたことじゃないですけど。でも、お願いします」
 張り上げたつもりはなかったが、人通りの少ない廊下に声は思いのほかよく響いた。反響が納まるのを待って顔を上げたリーバーは、数歩先で首を巡らせてにこにこと微笑みながら立ち止まっているティエドールを慌てて追いかける。
 明確な返答は与えられなかったが、先ほどまでよりも明らかにやわらいだ気配こそが答だろうと判じ、リーバーもまた小さく穏やかな笑みを刻んだ。

Fin.

back to D-Gray man menu
http://crescent.mistymoon.michikusa.jp/
いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。