抜きつ抜かれつ
「いいの?」
心底気遣わしげな様子で紡がれた問いに、神田は思い切り眉を顰めた。
「は?」
「だから、のところに行かなくていいの?」
「だから、って、一体どこがどうなればそんな話になるんだよ」
問いかけてきたのは、エクソシストとしての先輩にあたる年下の少女。見ている限り任務に出ることはほとんどないようだが、そこに見え隠れする年齢以外の理由について神田は興味も関心もない。司令官であり兄でもあるコムイに一度問い質したことがあるが、曖昧に「ちょっとね」と誤魔化されたので、そんなものだと納得することにした。迂闊に踏み込んでしまえば、背負い込まなくてはならないものが増えかねない。それは少なくとも神田にとって、賢明とは言いがたい選択だった。
教団にやってきてから、そろそろ半月になる。ようやく部屋の配置や日々の生活に必要な場所を覚え、日常が整いつつある。いかに自立心が高く他人に頼ることをよしとしない性格とはいえ、新しい環境に慣れるためにはそれなりに周囲の手助けが必要だ。不本意ながらも必要なことと割り切って神田が主に手を借りたのは、日本語が多少理解できるリーバーと、そして目の前の少女。他にも細々とした理由が積み重なり、僅かな時間のうちにリナリーは神田にとって無碍に出来ない相手というカテゴリーに配され、今に至る。
面倒くさい展開の予感がひしひしとするが、逆らえず無視もできず、こうして足を止めて身体の向きを直したのは、話しかけてきたのがリナリーだったというただそれだけの理由によるのだ。
眦を吊り上げて尖った声を出されれば、いくら付き合いが浅くとも相手が立腹していることへの察しはつく。悪気や他意がなくとも周囲の人間を怒らせることがそれなりに多い神田は、そういった気配の察知に長けていた。しかし、今回ばかりは理由がまったく思い当たらない。一度無碍に出来ないと位置づけた以上、リナリーに対してはそれなりに丁寧な対応を心がけていたはずなのだが。
「どこがどうなれば? 神田ってば、今日、が何をしていたか知らないの?」
無言の要求に圧されてしばらく考えを巡らせるものの、結局答の見つからなかった神田に、リナリーは呆れかえったと言わんばかりの声を上げる。
「コムイかリーバーのとこで雑用だろ?」
「ヘブラスカに、適合者かどうかを見てもらっていたのよ!」
神田にとっての新しい日課がイノセンスとのシンクロ率を上げるための鍛錬であるのと同じように、にとっての新しい日課は科学班での庶務。そう考えて言葉を返せば、リナリーは鋭く正答を叩き返す。告げられた内容は寝耳に水で、神田は思わず大きく目を見開いていた。
素直に驚きを示す様子に、ようやく神田が本当に何も知らなかったことを悟ったのだろう。怒りをさっと拭い去り、不安と気遣いがないまぜになった表情でリナリーは僅かに上にある蒼黒の双眸を覗き込む。
「から、聞いてない?」
「初耳だ」
そっと差し出された問いに憮然と答え、神田はイライラと舌打ちを零す。あっという間に剣呑さを帯びた空気を感じ取ったのか、怯えたようにぴくりと肩を揺らし、それでもリナリーは気丈に言葉を続ける。
「あのね、ヘブラスカの所には、これまでに教団が集めてきたイノセンスが眠っているの」
説明口調へと変わったことから短くはない話だろうと、冷たい壁にもたれながら神田は目で続きを促す。
「いくつかは元帥たちが持って歩いて、世界中で適合者を探しているわ。でも、全部を割り振るのは無理だから、残った分はヘブラスカが管理しているの。は、ヘブラスカのところにあるイノセンスと適合するかどうか、あるだけ全部試してきたのよ」
ゆっくりと言い終えたリナリーは、何を思ったかふっと視線を逸らせて思いを馳せる様子をみせたが、神田にとって重要なのはその視線の先がどこに向いているか、ではない。眉間にますます力を篭め、瞳に険を混じらせて思うのはその査定の結果。少女が戦場に足を踏み入れるか否かのただ一点のみ。
深呼吸をひとつ挟むことによって最悪の結論を聞く覚悟を決め、神田はリナリーを呼ぶ。
「結果は?」
「全滅。どれも適合しなかったわ」
低く地を這った声には、あからさまな落胆を滲ませる声が返された。そもそも、イノセンスと適合者が巡り会うときには、何かしらのわかりやすいサインがあるものだという。それがなかった以上、限りなく低い可能性に、それでも絶対と言い切れないから賭けてみただけだったのだ。溜め息混じりに継ぎ足された説明の補完を聞き流しながら、神田もまた肺の底に重く凝った息を吐き出す。
「、ものすごくがっかりしていたの。慰めてあげたいけど、それは神田の方がいいと思って」
話の締めくくりの段になってようやく神田は自分があれほど不機嫌な声で詰問された理由を知った。要するに、リナリーは気を揉んで結果を待ちわび、思わしくなかった場合は真っ先に慰めに行くべき立場にある神田が常のごとく鍛錬に行き、素知らぬ振りで過ごしていることに腹を立てたということだろう。早とちりだったとしおらしく謝られてはそれ以上責める気にもならないが、まったくその通りのとばっちりだと神田はもうひとつ溜め息を追加する。
吐く息に思いを篭めた神田を見やり、リナリーは改めて最初の目的へと立ち返った。
「行ってあげて」
「……俺は、慰めたりは苦手だ」
静かに紡がれた声は細くも強く、下手に断れない空気を醸し出している。僅かな逡巡を挟んで返したものの、あっさりとした調子で「知ってるわよ」とリナリーは受け流す。
「でもね、行ってあげてほしいの。だって、きっと、神田のためにイノセンスを欲しがってたのよ?」
「そんなわけあるか」
語尾を跳ね上げながらも確信に満ちたリナリーの物言いに、遠く同じものを見ることの出来る神田はさらりと否定を返した。彼らの抱えるものを知らない人間から見れば、確かにそれは理に適った動機だろう。だが、そうでないことを神田は知っている。イノセンスは、戦場に出るための手段。それがなければ、目的を遂げるための第一条件が満たせないのだ。
明確な言葉として聞いたことはなかったが、が戦う術を持たない己をひどく悔やんでいたことを神田は知っていた。低い可能性と知りつつヘブラスカに頼んだのも、それを自分に告げなかったのも、きっと彼女なりの足掻きであり矜持。ゆえにこそ、戦う術を持つ自分では慰めることなど出来ないと確信できる。
間髪おかずに投げられた否定にきょとと目を見開いていたリナリーが我に返るよりも先に、神田は背を預けていた壁から身体を引き剥がした。鍛錬帰りで心身ともに疲労困憊していたのだが、それなりの時間の休憩を挟んだことで、大分回復してきている。適合率の上昇に伴う身体能力の増強は、素直にありがたいと同時に皮肉な考えをちらつかせる。こうして、どんどん人の領分から外れていくのか、と。
「俺は行かねぇぞ」
「ちょっと、神田!」
「それと、俺に話したことは言わないでおけ」
尊大な宣言をたしなめる声には、変わらぬ口調での忠告を付与した。意味を取りあぐねて困惑を見せるリナリーをまっすぐ見据え、神田はゆっくり口を開く。
「アイツは隠しごとなんかしねぇし、必要なことはどんなに都合の悪いことでも隠したりしない。逆に言えば、隠してたってことは俺が知る必要のないことで、おまけに知られたくないことなんだろ」
だから、この件を神田が知っていてはならない。たとえ察したとしても、それは彼女と接する中での結論でなくてはならない。彼女が完璧に隠し通していることを第三者の口から聞き知り、おまけにそれを理由に干渉するなど言語道断。神田はそれをよしとしないし、むしろの矜持を踏み躙る行為だろうと考える。
きっぱりとなされた宣言に、しばらく物言いたげな表情を浮かべていたリナリーは、ふうとひとつ息をつくことですべてを飲み込んだ。に関しては、神田の方が断然付き合いが長い。これまでに築いてきた関係を踏まえた上で神田がそう判断するなら、そこに口出しをするべきではないのだ。
「……わかった。これは、直接関わった人間だけが知っていればいいことなのね」
「そういうことだ」
鷹揚に頷き、神田はふと意味ありげな笑みを口の端に浮かべる。
「あと、お前は心配しすぎだ。アイツは滅多なことじゃへこたれねぇ。そんなに気を揉まなくたって、夕飯の頃には回復してるだろうよ」
皮肉な雰囲気の声音だったが、その裏には揺るぎない信頼と確信が見え隠れする。一方的に言い切り、話はすんだとばかりに「俺は戻るぞ」と言い置いて神田はリナリーを通り過ぎていく。肩越しにその背を見送って、聞いたこと、感じたこと、そして思わされたことを山のように抱えたリナリーは、心の整理と感情の共有を目的に、兄のいるだろう科学班室へと足を向けた。
Fin.