似て非なるもの
その少女の第一印象は、正直なところ無に等しかった。はじめて少女を見かけたと思われる記憶に断片的に残っているのは、泥に汚れ、傷だらけになった手足と、村の大人たちが何やら騒いでいた様子だけだった。
騒ぎの顛末は知らなかったが、結果として村外れの社に住む年老いた神主に引き取られた少女は、少し前に他界していた神主の妻の後を継ぐ巫女として育てられることになったらしい。珍妙な拾いものをしたのが己の父親だったことから、少年は少女に関する情報を聞くともなしに耳にしていた。しかし、元々他人に対する関心が薄かった少年にとってそれは、たとえば山の中で新しく実のなる木を見つけたのと同類の記憶に分類されるだけのこと。
少女の存在は、少年の生活になんら変化をもたらすものではないはずだった。
社の裏に広がる森の中にあるぽっかりと開けた空き地は、少年のお気に入りの場所だった。誰にも邪魔されることなくのびのびと修練に打ち込めるし、気を抜いて休むこともできる。かしましいことを厭い、人混みを避ける少年にとって、そこは絶好の隠れ場所だった。
特に利用価値のある木や草がある場所でもなく、また少年の性格を知っていて、というのもあるのだろう。村の人間は誰も、そこを訪れるものはなかった。だから、不自然なほど殺された気配にじっと修練を見つめられるというのは、少年としてははじめての経験だった。
変に近くまで踏み込むこともない、邪魔をせぬよう気遣われた見学を、そのうち飽きていなくなるだろうと少年は放っておいた。実際、邪魔をされることも邪魔に思うこともなかったし、気配は本当に微かなもので、はじめのうちは不本意ながらも気づかないくらいだったのだ。
だというのに、気配は飽きることなくほぼ毎日のようにやってくる。見学している時間は異なるが、何が面白いのか、毎日同じことを繰り返す。
「……出て来たらどうだ?」
ある日、とうとう痺れを切らした少年は、振るっていた木刀の切っ先を地面に向け、背後に感じる気配に向かってそう声をかけていた。気づかれていることを知らなかったのか、それとも声をかけられることが予想外だったのか。びくりと大げさに揺らぎ、それから観念したように気配が際立つ。
足を引いて振り向いた先、少年は予想通りの人物が木陰から出てくるのを見やる。
「邪魔をするつもりはなかったの」
ごめんなさい。そう呟いたのは、社に住む少女だった。
謝罪に対して黙り込んでいる少年に、機嫌を損ねてしまったとでも思ったのか、少女はもう一度「ごめんなさい」と告げ、そのまま踵を返そうとする。これ以上邪魔をしないうちに、という意思のはっきり見て取れるその行動に、こうも素直な反応を見られると考えておらず、思わず呆気に取られていた少年は我に返って声を上げる。
「別に、邪魔だったわけじゃねぇよ」
「え?」
踏み出しかけた足を止めて首を巡らせた少女は、心底意外そうにぱちりと瞬いた。そのまま小首を傾げて、ではなぜ声をかけられたのかと思考に潜りはじめた少女に、声は続ける。
「声も上げねぇし、動かねぇし。邪魔じゃないから、見るんなら普通に見てろ。気配を殺されてると、逆に落ち着かねぇ」
微かにしか捉えられない気配が傍にあるのが逆に気にかかるものだということに気づいたのは、最近のことだった。気づけば毎日の修練の中で、その気配が来ているかどうかを確認するのが癖になってしまっていたのだ。
時間がいつもとずれていたり、普段よりしっかり気配が殺されたりしていると気分がざわめく。日常の中に入り込んできた他人の存在を認識すると同時に躍起になって排除しようともしたが、もう遅かった。
今までにない己の有り様に苛立ちはしたものの、少年は一方で、非常に割り切りの良い性格をしていた。捉えにくい気配に神経を尖らせるなら、はじめから目の届く位置で堂々と見学された方がマシだと考え直したのだ。
「見ていていいの?」
「邪魔したら叩き出す」
おずおずと確認を取ってくる少女に、肯定の代わりに忠告を放る。たいていの相手はその遣り取りに眉を顰めたり表情を歪めたりするものだったが、少女は神妙に頷き、それから嬉しそうに「ありがとう」と告げて少年から邪魔にならない位置にそっと腰を下ろした。
何が面白いのか。それが少年の素直な感想だった。日によって多少の変化はあるものの、まだ未熟な腕しか持たないことを自覚している少年の修練は、ごく基本的な型をひたすら繰り返すだけである。それを、少女は毎日のように見に来る。それこそ、日によってやってくる時間と帰る時間が違うぐらいの変化だけで、少女は飽きることなく見学を繰り返した。
いつか「剣術はわかるのか?」と問うた少年に、悪びれなく「全然わからない」と答えていたくせに、動きの違いぐらいは見分けられるようになったらしい。稽古をつけられた際に負った打ち身を見抜いたことをきっかけに、少女は見学にさらしと薬を持参するようになった。
余計なお節介や世話焼きは少年の嫌うところだったが、気まぐれに手当てをさせてみれば、その内容は適確であり薬もよく効く。無駄なことも押し付けがましいこともなく、最低限の処置を施すだけの姿勢は少年の好むところであり、少女の存在は、少年の日常にひっそりと、しかし確実に根ざすものとなっていった。
領域の内側に佇むことを許してからしばらくして、少年はようやく少女にその理由を問いかけた。
「なんで見にくるんだ?」
いつの間にか少女が持参する品は増え、汗を拭う布と水筒が常備されるようになった。弾む息を宥めながら喉を潤していた少年は、驚いたように目を見開いて言葉を探している少女を怪訝そうに見やる。
「どうした?」
「今さらになってそんなことを聞かれるなんて、思わなかったから」
ぽつりと返され、それもそうかと少年は緩慢に頷いた。別に他意はなかったし、興味本位の質問は気まぐれによるもの。そもそも他人に関心を覚えることが皆無の少年にとって、きっかけを問い質そうと思い至ったこと自体がまず稀なこと。
思い返して改めて自分の行動に疑問を抱きもするが、少女が近くにいること、自分に関わることを許容したことさえも稀なのだ。それこそ今さらだろうと、少年は無言のまま自己完結に至る。
少しの間視線を宙に泳がせていた少女は、すっと息を吸ってから観念したように口を割った。
「綺麗だと思って、傍で見ていたいと感じたから」
与えられた回答は、簡潔で明瞭なものだった。
こういった理由があるのだろう、と予想を立てていたわけではないが、それなりに筋道立てた話を聞かされることを漠然と考えていた少年は、根拠としてはあまりに薄い、感覚的な理由に少女を見返す。
「あなたはとてもまっすぐな命の持ち主。研ぎ澄まされていて、刃のよう。それは会ってすぐにわかったのだけど、剣を振るっている姿を見て、あまりにもしっくりきすぎたことにびっくりしたの」
視線を受けてぽつぽつと紡がれはじめたのは、少年にとってよくわからない論理に基づいた説明。社に仕える身だからか、生まれ持ったものなのか、少女は少年の見聞きできるそれと少し違った世界で呼吸をしていた。具体的に確信するような事態に遭遇した経験はないが、少女の言動の端々から少年はその事実を察していた。だから、遮ることなく少女の言葉の続きを聞く。
「見極めてみたかったし、ただ純粋に見つめてもいたかった。とても綺麗で強い在り方だから、あなたの傍にいれば、私もその在り方を学べる気がして」
これではダメかしら。そう小首を傾げる少女に虚偽の気配はない。別に詰問するつもりもなかった少年は、そんなものかと素直に納得して「いや」と短く答える。
そろそろ山の端に日がかかる。呼吸も落ち着いたことだし、帰宅の時間が近いことは明白だった。涼しくなってきた風に肌をなでられ、ぶるりと少女が身震いをしたのを合図に、少年は腰を上げる。
「で、見極められたのか?」
手早く持ち物をまとめて同じく立ち上がった少女に水筒を返しながら、ふと思い立って少年は問いを重ねた。それは純粋な興味にして好奇心。水筒にかかった細い指先は一瞬力を失い、それからゆっくりと握りこむ。
「良くも悪くも、あなたは刃。まっすぐで曇りがなくて、妥協ができなくて立ち止まれない」
地に落とされた視線が指先から腕を、肩を這い、少年の双眸にひたりと据えられる。底の見えない深い夜闇色の瞳は、ただたおやかな光を宿して静謐な声を少年に刻む。
「私はあなたの強さに惹かれる。そして、決して同じものを手にすることはできない。けれども傍にいたい。だから、私は鞘になる」
宣されたのは少女の答だった。大きくはない声は澄み渡って風に乗り、凛と強い輝きを放つ。
二人の間に佇んでいた水筒が、少女の指に引かれて少年の手から抜け出す。
「邪魔をしないなら、見ていてもいいんでしょう?」
神託を告げる巫女のごとき表情と声音は、いつの間にか常の少女のものに戻っていた。唇を吊り上げながら、笑いを含む声で告げられたのはいつか少年が少女に向けた言葉。その日、少年は少女の存在を許容し、その日から、少年も少女の傍に佇むようになった。
「――邪魔じゃねぇから、そこにいろ」
目の届くところに、手の届くところに。いつしかその存在が傍らにあることが身に馴染むようになった。ならばこの先もそうあればいい。しゃんと背を伸ばし、己の領分を知り、高みを目指して歩む存在は嫌いではない。人嫌いの自分が例外を認めたいつかの言葉をなぞりながら、少年は双眸を眇める。
くるりと踵を返し、歩き出せば半歩後ろをついてくることを知っていた。呼吸をするのと同じほどに、己以外の気配をごく自然に受け入れるようになった自分に少しだけ呆れたような微苦笑をこぼし、少年はひとりのときよりも若干緩めた歩調で獣道を進んだ。
Fin.