朔夜のうさぎは夢を見る

とてもとても幸せな

 ずっとひとつ所に篭もっていれば、扉のノックの微細な違いさえ鋭敏に感じられるようになるのだから、我ながら相当な引き篭もり具合だとリーバーは小さく溜め息をついた。
 ノックの音の大きさや、間隔、その前の廊下を歩いたり走ったりする音、そしてノックをしてから扉を開けるまでの対応。逆にいえば、誰一人としてその組み合わせが完全に合致する人物同士がいないというのもまた興味深い事象である。暇さえあれば統計を取ってみたいと感じるのは、もはや学者としての病気を通り越して、習い性のようなものだろう。
 控えめな、ともすれば聞き落としてしまうのではないかと思えるほどの小さなノックは、扉を打つ力が弱い証拠。間隔はのんびりとしており、二回打ちつけてから「失礼してよろしいですか?」とかかるやはり小さな声。しかしよくとおる。
 ノックを聞き落としていたらしい班員たちが顔を上げ、扉を見てから部屋の奥を見る。入室の是非を問うべき相手は夢の中。なればと集まる視線にはいちいち応えず、リーバーは扉に向かって声を放った。


「ゆっくり開けてー」
 前回、それはもう見事なタイミングの悪さでちょうど通りがかった班員の書類の山を崩したことは記憶に新しい。今にも泣きそうな表情で、寝不足の続く班員の誰よりも蒼い顔で必死に「ごめんなさい」を繰り返されては、被害者のはずが加害者のような罪悪感に苛まされる。同じ轍を踏むまいとの忠告は、どうやら正しく伝わったらしい。遠慮がちな音を立て、扉がゆるりと押し開けられた。
「おう、どうした?」
 顔を覗かせ、慎重な足取りで床を埋め尽くす書類の隙間を歩むのは長い黒髪を背でゆるく括った少女。教団内において女性の比率は低く、まして見るからに幼さを残す少女ともなれば候補は二人。室長助手でありエクソシストでもあるリナリーと、つい最近、アジア支部から連れられてきた新たなるエクソシストの幼馴染であるというだけ。ノックの段階で確信してはいたが、改めて顔を向け直し、リーバーは目の前にやってきた新しい“家族”に、ゆっくりと単語を区切って問いかける。
「室長とお約束していました。今後の、私の処遇についてお話を」
「ああ、そっか。ちょっと待っててな。今起こすから」
 早口でまくし立てられれば未だ聞き取りの追いつかない部分もあるらしいが、少女は異国語を学んでから半年にも満たないとは思えないほどの、驚くべきコミュニケーション能力をみせている。おっとりした口調は元からのものか。丁寧に告げられた内容にはリーバーも覚えがあり、すぐに得心してをソファへと促し、自らも立ち上がって部屋の最奥へと足を向けた。


 机に突っ伏して仮眠を取る室長を叩き起こすのは、忍びないと同時にそこはかとない快感を伴う。揺する、叩く、殴る、の三段階をあえて挟むのはもはやお約束だ。無論、それで起きてくれないのもお約束であり、最終にして常套手段は最愛の妹君の名を持ち出すこと。
 予想に違わず、耳元で囁くだけで素晴らしい反射神経で飛び起きた教団幹部を呆れた様子で眺めやり、驚きからか目を大きく見開いている少女を振り返ってリーバーは飽きるほどに繰り返した説明を紡ぐ。
「びっくりさせたろ? 悪いな。この人、このネタでしか起きなくてさ」
「……リナリーは、恋をするだけでも一苦労ですね」
「ははっ、違いない」
 ぱちぱちと瞬き、やわらかな苦笑を浮かべてあっさりと流すあたり、は年齢の割に人格ができていると科学班班長は内心いたく感心する。そして同時にしみじみ納得してしまうのは、少女と同郷たるエクソシストが、実にわかりやすく、しかし扱いづらい性格をしていることに起因する。なるほど、彼に寄り添って立つという関係が成立するのは、こういうできた人間だからなのだろう、と。


 ひとしきり嘆いたところでようやく正しく目が覚めたのか、こほんと咳払いをひとつ。室長は真面目くさった表情を取り繕って背筋を正す。
「で、君の処遇の話だったよね、くん」
「お忙しいところ、お時間をいただいてしまって申し訳ありません」
 たとえどれほどふざけたインターバルを挟もうと、抑えるべきところを抑えているのは、さすが教団のサポート部門トップの頭脳といったところか。ソファの上で優雅に一礼したに「気にしないでいいよ」と表情を崩し、コムイは手近にあった書類の山から目的の束を抜き出す。
「メディカルチェックもメンタルチェックも高水準。ホント、君たちは揃いも揃っていい素材だよねー」
 ぺらぺらとめくりながら呟く声は、軽い中にも真摯な驚嘆と感心が篭められている。
「君が適合者じゃないことは、教団にとって残念なことだよ」
「私にとっても、残念なことです」
 寂寥と安堵と羨望と。複雑な色合いの声には、複雑な笑みと声が返される。


 曖昧に、へらりと笑いあって停滞しかけた空気を払拭。それは、互いにとって最良の防衛手段。そして何ごともなかったように話は進む。
「教団内で見聞きしたことへの守秘を誓ってもらえるなら、外でも暮らしてもらえるよ。教団で働いてもらう、という選択肢もある。君の場合、ファインダーとして十二分に通用する能力を持っていることを、僕が保証する」
 望むままの選択を。穏やかな笑みを添えて示された道を前に、少女は迷うことなく目を上げる。
「ここで働かせてください。雑用でも下働きでも、できることはすべてします」
「引き返すなら今だよ。これ以上関わったら、戻れなくなりかねない」
「彼がここにいるのなら、私もここにいます」
「……正反対かと思えば、本当にそっくりだよね、君たち。言い出したら聞かないんだから」
 やさしげな笑みは、いつしかそこはかとない悲しみを滲ませていた。遠くを見るような、愁いを帯びた視線。その表情を知ってはいても未だ浮かべたことのないにとって、それは、正面に座る男が大人であり、自分が子供であることを思い知らせる証のようなものでもあった。


 賢い大人はいつも、その表情の後に決して聞き逃してはならない忠告をする。決して愚かではない子供はいつも、理解しながら忠告に従うことができずにいる。
「職種の希望は? 何ができる?」
「薬草の取り扱いと医療知識が少々。日本のものでよろしければ、呪術の知識もあります」
 さらりと返された問いに対して、は間髪おかずに用意していた言葉を紡ぐ。無力であることは承知していますが、なせること、なすべきことはすべてなしたいのです。向けられた声と視線と、そこに滲むのは切実な願い。無音の訴えを正確に読み取りながらも、しかし、コムイは己の職分を忘れていなかった。
「ファインダーとして働くっていう選択肢はなし? 正直なところ、もったいないなぁ、って思うんだよね」
「それでは、約束が守れませんから」
 口元は緩やかに弧を描いているものの、視線は笑っていなかった。コムイ・リー個人としてではなく、黒の教団幹部の一人としてという才を惜しんだ男に、は才持つ候補者としてではなく、ちっぽけな一人の小娘としての答を返す。
「約束?」
『鞘は、刃のために、刃と共に、刃が折れるまで』
 朗々と謳われたのは、遠い東国の言葉。コムイと語り合うための言葉に変換するには語彙が足りないのだとはにかんだ少女に、科学班室長は少し離れた位置で数式に取り組んでいた言語学者を振り仰ぐ。


 呼ばれただけで何を求められているかを正確に察したリーバーは、直訳しかできないと断った上ですべての単語をアルファベットに置き換えた。きっと、直訳ぐらいならばにもできたのだろう。それでもあえて彼女が故国の言葉で朗じたのは、そこに篭められた意味を音に載せることが適わないから。
 声にさえ、息吹にさえ、すべてに祈りと願いを篭め、力ある呪いへと変えるのは彼らの国に固有の魔術。先日ちらりと聞き齧った豆知識を思考の隅で呼び起こしながら、リーバーは先ほどから全く進まない目の前の数字の羅列を投げ出す。集中できないなら、集中できるようになるまで小休止を挟むのもまた効率化のための有効な手段だ。
 言葉をただ字面通りにとれば足りるような、少女は素直で単純な性格をしていない。それは既に察せられていたので、単語に篭められているのだろう深く重厚な思いを読み解こうとコムイがすっと視線を伏せる。しかし、思索はあどけない声によって遮られる。
「それに、目の届かないところで危険なまねはするな、と厳しく言い渡されているんです」
 笑い含みの声はそれまでの雰囲気とあまりにも違いすぎて、コムイもリーバーも思わず瞬きを繰り返す。見つめる先、口を開くのは幸せのあまりとろけそうだといわんばかりの笑みを浮かべた、幼さを残す異国の少女。
「自分の身を護ることもままならないくせに、危険な場所になんか出たがるな。ひとりで外に出るな、自分がいないときはおとなしく待っていろ、と」
 笑いながらも眉間にぐっとしわを寄せ、顰め面を取り繕うさますら幸福感に満ちていた。の表情はどう贔屓目に見ても笑顔としか認識されなかったが、真似ようとしている相手の表情はありありと脳裏に描き出せる。


 腕を組んで、眉間にしわを寄せて、少し視線を逸らしながら不機嫌な声を紡ぐ少年。彼の不機嫌はもはや常態なのだということがわかってきたこの頃だったが、その色味が、こと目の前の少女が関わるときだけ幾分風合いを変えることもまた最近わかってきたことだった。
 まったくもって微笑ましい、不器用な、それでいてなんと正直な気遣いなのか。
 思わずといった表情でを見つめていたリーバーと目を見合わせて苦笑をこぼし、コムイは「じゃあ仕方ないね」と大袈裟に溜め息をつく。
「愛されてるねぇ」
「室長も、リナリーを愛していますよね」
「んー、僕のは家族愛とか兄妹愛ってやつだ」
 君たちとは違うだろう。そう揶揄交じりに問われて、はほんの少しだけ、寂しさを笑みに織り交ぜる。
「似たようなものです、きっと。他の方より思いを傾けられているのはわかりますが、そこにどういった思いが篭められているのかは、聞いたこともありませんから」
 形の良い小さな唇から零れ落ちたのは、年齢不相応な切ない溜め息。子供だと、そう侮ってはいけないことを感じさせる女の艶をはらんだ横顔は、儚さとあいまった美しさを誇る。


「それに私も、あまりにも大切すぎて、恋焦がれる段階は突破してしまいました」
 わずかに伏せていた視線を持ち上げ、ことりと首を傾げて浮かべられたのは月明かりのような笑み。太陽ではなく、笑い顔ではなく、闇の中ひっそりと、しかしくっきりと浮かぶ銀盤の笑み。
「見返りなんていりません。無事でいてくれるならいい。幸せになってくれるなら、それこそが願望であり理想です」
 紡ぐ声は蒼銀色。どこまでもどこまでも、夜闇に滲む月明かりを思わせる少女は静かに心を綴る。
「きっと、これが愛という気持ちなのでしょうね」
 それは、深くてやさしい思い。ひたすらに相手を思いやる、まさしく愛という名の想い。だというのに、胸を突くこれは何だろうか。己よりずっと年下の子供に知らず圧倒されて息を呑んでいたコムイとリーバーは、視界の隅に映った、小刻みに震える繊手にそっと痛ましげに両目を眇める。
 愛を語りながらそこはかとない諦念と絶望を纏う少女は、ゆるりと微笑んで両手の指を祈りの形に握り締めていた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。