朔夜のうさぎは夢を見る

手が届くところに

 風の噂に聞いた新しく誕生した冷徹なエクソシストの話を肴に、クロスは店で一番上質な酒を飲んでいた。酒を注ぐは酸いも甘いも噛み分けた、世の中の何たるかを知っているこれまた上質の女。グラスの中の琥珀色は芳醇な香りを放ち、独特の苦味と甘味が喉を焼く。だというのに、酒はどことなく味気なかった。
 機を計り、ごく自然な所作で酒が注ぎ足される。ただ黙って酒を干すことにのみ終始している男に、女は何も言わない。何も問わず、何も求めず、ただ黙って男の隣にいる時間を過ごす。苦痛にならない沈黙を醸し出せるのは、男が求めるいい女の条件のひとつ。心地良いしじまに双眸を眇め、クロスは遠くもなければ近くもない追憶に耽る。


 談話室のソファに黒髪の少女二人が肩を並べているのは珍しい光景ではなかったが、そこにもうひとつ、長く艶やかな黒髪が加わっているのは珍しい光景だった。談笑しているにしては真剣な、張り詰めた空気に気まぐれな興味を覚え、特に気配も殺さず少女たちの背後からその手元を覗き込む。
「占いか?」
「きゃっ!」
「えっ!?」
「………」
 机に並べられていたのは談話室に備え付けのトランプだったが、その配置は、見るものが見れば何を意図したものか一目瞭然。確認する目的で呟けば、びくりと竦む適合者の少女と、はたと振り向く科学班雑用係、そして、ただちらりと視線だけを流してきた適合者の少年。三者三様の反応には頓着せず、魔術にも造詣の深い元帥はカードの示す意味を読み解く。
「いっぱしに恋占いか? ここにはろくな男がいないだろうが」
「ク、クロス元帥! あの、兄さんには内緒に……!」
 あまり明確な意味を紡いでいないところから察するに、漠然と、将来を占ってでもいたのだろう。その方向性を恋だの結婚だのに絞り込むのは、小さくとも女は女、といったところか。くっくと喉の奥で笑いながら正直な感想を漏らせば、過保護な兄を持つ少女が必死の形相で口上を述べる。
「面倒ごとを拾う気はない。心配するな」
 ただでさえ喰えない相手だというのに、自分から厄介ごとの種を撒くような物好きではない。口止めの依頼に苦笑交じりの二つ返事を返せば、ほっと溜め息を吐き出し、改めてリナリーは会釈を送る。


「あの、もしかしてもう出発なさるんですか?」
「もう用はすんだからな」
 早く、一日も早くと焦れていた用向きがようやく片付き、クロスは今まさに教団を後にせんと地下の水路に向かっている最中だった。必要最低限の荷物が詰まった鞄と、帽子の上には金色のゴーレム。行き先はまだ決めていないものの、とにかく一刻も早く教団の閉鎖的な空気から解放されたくてたまらなかった。だから、その待ち焦がれた瞬間が目の前にある今、クロスはいつになく上機嫌だった。
「あの、少し待っていてください。兄さんもお見送りしたいと思うんです!」
 にべもない返答にほんの少し息を呑んだものの、少女はめげもしなければ圧倒もされなかった。上目遣いに「黙って出て行かないでくださいね」と念を押し、ぺこりと一礼を残してあっという間に廊下を駆けていく。喰えない科学班室長と顔をあわせるなど常ならばあまり良い気分もしないものだが、やはりこのときのクロスは上機嫌だったため、少女の願いに否とは返さず、黙ってその細い背が遠ざかっていくのを見送るに留めたのだった。


 室長助手を兼任する適合者の少女が去ってしまえば、残るは無口で無愛想な適合者の少年と、その少年に寄り添う少女のみ。戻された元帥の視線にそれぞれ会釈を送り、がにこりと笑って口を開く。
「大変お世話になりました」
「いい女に育てよ」
 ともすればいやらしく聞こえかねないセリフをさらりとのたまい、男はあっさりと踵を返す。別れを名残惜しむほどの付き合いはないし、そもそもクロスはそういったことを重視する性格でもなかった。おざなりに「ではな」と言い置いて立ち去ろうとしたところを、しかし、引き止める声と追う足音。
「どういうつもりだ?」
「私たちも、お見送りを」
 すぐさま追いついて男を見上げる少女は、反対の手に少年の手を握っている。少年はいたく不服そうな表情を隠そうともしていなかったが、反論しないところを見るに、少女に付き合ってクロスの見送りに立つつもりらしい。先の占いではないが、将来は尻に敷かれる口だろうなと胸中で呟き、くつりと笑ってクロスは二人の同行を許容した。


 水路に続く階段は、細く長く薄暗い。慣れた調子で歩くクロスの後ろで、闇に目の慣れていないを神田が手助けしているのだろう。小さな声で異国語が遣り取りされているのがよく響く。かつかつと踵を鳴らして船着場にやってくれば、舟渡しを請け負う教団員が黙礼を送って準備へと取り掛かる。
 俊足のエクソシストが呼びに走ったというのに、コムイの姿はどこにもなかった。いっそ無視して出立してしまうかと考えていたクロスを見透かすように、が「もう少し待ってください」と袖を摘む。いったいどこをどう気に入ったのか、頭上にいたはずのゴーレムまでが暇潰しといわんばかりに神田に纏わりつきはじめたのを見て、クロスは諦め交じりの溜め息をひとつ逃す。
 心底鬱陶しそうな神田と、何を考えているかわからないゴーレムのどこか剣呑なじゃれあいを見るともなしに見やっていたクロスは、ついと引かれたコートの袖に視線を下向けた。薄暗い、水の音が微かに反響する通路の中で、視界に納めた夜闇色の瞳が異彩を放っている。常と違う雰囲気を感じ取り、いぶかしげに眉間に皺を寄せるのと少女の口が開くのは同時。
「遠からず、岐路に立つことでしょう。あなた自身の岐路であると同時に、世界にとっても大きな意味を持つ岐路へと」
 気まぐれに落とされたにしては、あまりに重い声音。仮面の奥に隠された瞳さえをも透かし見るように、は瞬きひとつせずに双眸をクロスへと向ける。
「過たず、正しき決断を。光陰は共に在ります。夜明けの前には暁闇があることを、お忘れなきよう」
 歌うように紡がれた言葉は謎めいており、さしものクロスも咄嗟の反応を返せなかった。


 少女が口を閉ざすことで降りてきた奇妙な沈黙は、金色のゴーレムが少女の顔面にぺたりと張り付くことによって破られる。小さく驚愕の声を上げ、自分の視界を塞いでいた正体を知るやくすくすと笑いながらじゃれはじめた姿に、先ほどまでの空気は微塵も感じられない。どういうことかと、同じく言葉を聞いていたはずの神田に視線を向ければ、応えて向けられたのは落ち着き払った常の表情。
の先視は当たりますよ、クロス・マリアン元帥」
「先視? 予知能力者か?」
 呟くように説明した神田に厳かに問い返し、クロスはゴーレムと戯れる少女を静かに見下ろす。
「視たいものが視えるわけじゃないらしいんで、制御はできませんが。逆に、視えたものは当たるんです。どれほど悲惨な未来でさえ」
 慈しむように、護るように。少女へと戻した視線に力を篭め、少年はその双眸を眇める。だから、こいつが視えたものを当人に伝えるのは稀有なんですよ。追加された文言に篭められていたのは、それだけ視えた内容に彼女が意味を見出したのだろう、という彼の確信。揺ぎ無い声に垣間見えるのは、そう確信できるだけの事実を二人が越えてきただろう現実。
 難儀な子供だろうとは思っていたが、予想以上に厄介な子供たちだと胸中で呟き、今さらかとクロスはそのまま自己完結に到る。エクソシストになるような連中に、まっとうな経歴を期待することが間違っている。そんな常識的な精神は、すぐさま非常識な世界に砕かれてしまうのだから。


 結局、クロスがそれ以上のことをに質すこともなければ、がそれ以上のことをクロスに告げることもなかった。神田もも、そんな事実はなかったかのように話題を打ち切り、ちょうどやってきたコムイのおかげで場はうやむやのままクロスの出発へとなだれ込んだのだ。
 それから教団への連絡をサボり続けていたクロスが、同じく元帥の責を担うティエドールが育て上げたという刀使いのエクソシストを知ったのは、サポーターが経営する妓楼に足を向けたときのことだった。
 ゆらりと手の内のグラスを揺らし、照明を乱反射する水面に目を細め、男は追憶の海から浮上する。薄闇の中で煌めく傍らの女の黒い瞳に、思い出すのは未来を語った少女とそれを受け入れていた少年。
 一番近くにいた、一番大切だったろう存在を喪い、それでも泣き叫ぶことも立ち止まることもできず、抱えた誓いのためだけに死へと邁進する若きエクソシストの噂は、らしいといえばあまりにらしく、らしからぬといえばあまりにらしからぬもの。


 彼は言った。少女の先視は当たる、と。
 なるほど、その通りだった。過ぎた日に、教団の一室で杯に酒を満たしながら断言した幼さを残す声が脳裏に甦る。
 ――ユウが求める強さの代償が、私の命で足りるならよいのですが。
 あの日、あの時はたおやかな少女の声があまりにも月明かりに美しく滲んでいて、美しきものを愛でる彼はそれを掻き乱したくなくて何も言わなかった。だが、今ならば鼻で嗤って遠慮なく罵れる。お前たちは幼く愚かで、何と盲目的な愛しか知らないのかと。
 思わず唇を割ったのはほろ苦い笑声。酒瓶を手にしていた女が小首を傾げる。しかし、何も問わない。何も言わない。ただ、何を思ったか、哀しげに視線を伏せて眉尻を下げる。
「……足りなかったようだぜ。そして、決定的に大切なものを奪い去ったんだ」
 美しい憂い顔を堪能してからゆったりと瞳を閉ざし。クロスは記憶の中、扉に手をかけて振り向く少女に嘲笑と憐憫を篭めた声で呼びかけた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。