朔夜のうさぎは夢を見る

月は知っている

 適切な処置ゆえに危険性はないとのことだったが、神田は目を覚まさなかった。
 一日が過ぎた頃は、むしろこれまで丸五日間不眠不休だったことを思い、ゆっくり休んでほしいと考えていた。
 二日が過ぎた頃は、このぐらいは仕方がないほど疲れていたのだろうと考えていた。
 三日が過ぎた頃になって、様子を見に行くたびにまず呼吸音とシーツのかかった胸が上下していることを確認するようになった。
 そして四日目の今日。どうにもいたたまれない不安を、静養のためあてられた休暇でやることがないのだという理由に押し込めて、アレンは医療班室のベッドサイドに腰掛けていた。


 聞いた話によると、神田の手によって運ばれてから目を覚ますまで、アレンの寝顔はそれは酷いものだったらしい。眉間に皺を寄せ、泣き、悲鳴を漏らし、悪夢に襲われる人間の集大成のような様相を呈していたという。だというのに、今そのアレンと同じベッドで眠る神田は、実に穏やかに呼吸を繰り返している。深く吸い、長く吐く。理想的なまでに整った呼吸を繰り返す姿は、一種幻想的なほどだった。
 灯りをつけては眠りに影響するかもしれないからと、アレンは夜闇に沈む部屋の中、窓から差し込む月と星の光だけを頼りに青年の寝顔を見つめていた。蒼白い空気に染め上げられた、陶器のような肌。はじめは青黒い隈がくっきりと浮いていた目許の状態も、多少は改善されている。それでも、点滴による栄養供給を施され、時おり水を含まされてはいるようだが、飲まず食わずであることに変わりはない。日を追うごとに悪くなる顔色が痛々しく、しかしそれこそが生きている明確な証左であり、アレンは複雑な思いだった。
「――犠牲って、誰のことだったんですか?」
 呟く声は静謐で、静寂に寄り添ってしんと響き渡る。
「君は、誰の犠牲の向こうに救いを見ているんですか?」
 いつか聞いた言葉が、胸を締めつける。あの時はまるで見えなかったし、今もほとんど見えない。それでも、なんとなく感じ取るものはあった。
 そう、その通り。あれがもし仮に逃れようのない犠牲だというのなら、その向こうに救いがないなど、認められようはずがない。


 ゴーレムの羽音さえも邪魔になるかと思ってティム・キャンピーは自室に置いてきたが、連れてきた方がよかったかもしれない。こんな、耳が痛くなるような静寂の中、蝋人形のようにさえ見える青年の隣に佇んでいるのはいたたまれない。
「ユウは、なーんにも教えてくれないさ」
 答えのないはずの問いが完全に静寂に融けきった頃、返される軽やかな声があった。常よりも潜められた声は、常と同じ響きを持ってアレンの背後から足音もなく近づいてくる。
「ユウは何も許してくれない。関わることも、立ち入ることも、知ることも、垣間見ることも」
 それがユウの誠意であり覚悟であり、本人は認めないだろうけど、優しさなんさ。続ける声はやわらかな笑みに縁取られていた。振り向くことなく声を受け止め、アレンは神田の上下する胸元を見つめ続ける。
「オレらがいるのは、ギリギリの位置。ユウが許さないものに触れないで、それではじめてオレらはユウの近くにいることを何とか許容される」
「それは、みんな同じでしょう?」
「まあな。でも、みんなどこかで触れられることを望んでもいる。同情されて、慰められて、かわいそうって言われて、それで満たされることもある」
「でも、神田はそれを決して望まない。神田にとって同情は侮蔑であり、慰めは屈辱であり、かわいそうと言われるのは度し難いほどの怒り」
 同じ温度の声で淡々と切り返し、アレンは「本当に、どこまで馬鹿なんでしょうね」と言い添える。対するラビは、声を立てずに小さく気配を揺らすだけだった。


 半歩後ろに佇んでいたラビが、音もなくアレンの隣に並ぶ。
「うなされてはなさそうだな」
 顔を覗き込んでから振り返り、ラビはふっと唇を吊り上げた。
「むしろ、普段より穏やかに見えますよ。眉間の皺がないし、睨まないし」
「黙ってりゃあ美人だしな」
「ええ。黙っていれば、ね」
 溜め息混じりに同僚に対する評価を肯定し、アレンは僅かに瞑目する。
「目を、覚ましますよね」
 紡いだのは、あまりにもくだらなすぎて、誰にも質すことのできなかった問いかけだった。みっともなく声が震えたのは悔しかったが、閉ざした視界はこちらを見ているはずのラビの表情を教えない。瞼越しに感じる視線に、明確な表情は察せられない。
「どうしても無理なら、王子さまが口づけをしてあげればいいさ」
 笑い混じりの声は、常の調子で「そうしたら怒りのあまり、六幻とセットで飛び起きるさ」と続ける。
「可憐なお姫さまならともかく、こんな性格極悪で気性の荒い女王さまなんか、願い下げですよ」
 辛辣に吐き捨て、アレンは目を開ける。ラビは視線を正面に戻してくすくすと低く笑っており、神田は眠りはじめた日と同じく、ただ理想的な呼吸を繰り返し、静かな面持ちでそこに横たわっていた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。