近づけば近づくほど
自室で気休め程度の仮眠を取り、暴力的なまでの爽やかさで視神経を貫く朝日の中、コムイは廊下をだらだらと歩いていた。眩しいが、目を覚まして身体を活動状態に持っていくのに、日光を浴びることがいかに効率的であるかは知っている。悲鳴を上げる感覚と冷静に囁く理性とを秤にかけ、コムイは自分を虐める気分満載であえて窓辺を経由する。
「おっはよーございます」
眠気だろうが空腹感だろうが、限界を突破すれば何か別のものに変換される。徐々に上がってきた妙なテンションの中、進行方向にある光の中からくたびれた声がかけられた。目を細めて声の主を見極め、同じ空間に足を踏み入れてコムイはへらりと笑った。
「おはよう、リーバーくん」
「なになに? 昨日も徹夜?」
若いっていいねー、とからかえば、気のない声で「せいぜい羨んでください」と返される。珍しく殺気の混じらない切り返しに、苛立ち交じりの反論を予想していたコムイは肩透かしを喰らって目をしばたかせる。
「えー? どうしちゃったの! なんでそんなに今日は優しいの!?」
「朝から珍しいもん見たんで、機嫌がいいんスよ」
「珍しいもの?」
笑い含みに頷いたリーバーは、疲労の混じる表情ながらも確かにどこか楽しげである。
教団は高地にある分、朝夕はよく冷える。きんと透き通った空気を肺腑に取り入れるうちにすっきりしてきた頭で、コムイはその珍しいものとやらを思索する。
色々と候補を挙げては却下しているらしい思案顔の上司を横目に見やり、科学班班長はにやにやと意地の悪い笑みを浮かべている。日頃からかわれることが多い分、こうして意趣返しができる機会は貴重だ。思わぬツボにはまったのか、ヒントさえ求めずに推理に耽るコムイに、しかし、リーバーは「時間切れです」と至極残念そうに宣言する。
「あら、室長もいらしたんですね」
軽く片手を上げたりーバーと背中越しにかけられた声に、コムイは目を丸くしながら振り返る。
「おはようございます」
廊下からテラスへと姿を現したのは、見慣れない揃いの衣装に身を包んだ神田とだった。
コムイなどは長袖の上着を纏っていても少々肌寒いくらいだというのに、二人は頬をうっすらと上気させている。寒さによるものというより、身体を動かしたからだろう。朝露に濡れたのか、汗が染みたのか、艶やかな黒髪はところどころしっとりと束になっている。
「よう、おはようさん」
「おはようございます、班長」
改めてかけられた挨拶に会釈を添えて笑みを返し、は事情を飲み込めずにいるコムイを振り仰ぐ。
「稽古をつけてもらいに、森に出ていたんです。戻る途中で班長を見かけたので、ご挨拶に立ち寄ろうと思いまして」
「それで珍しいものか。確かに、その格好ははじめて見たなぁ」
ようやくリーバーの含み笑いの理由に察しがつき、コムイは納得の声を上げた。恐らくは彼らの故国の民族衣装なのだろう。裾や袖にゆったりと布地が使われているが、動きを妨げるようなものではない。物珍しさも手伝ってしげしげと見やるコムイを楽しそうに笑いながら、リーバーが言葉を継ぐ。
「まあ、その格好も珍しいですがね。俺としては、森を出るまでの剣術つき鬼ごっこの方が見応えありましたよ」
さらりとのたまわれたのは、思いのほか物騒な単語だった。ぎょっとして張本人たちを見やれば、神田は不機嫌そうに顔を背けての舌打ちを隠そうともせず、も困ったようにはにかんでいる。
イノセンスの適合者は、その事実だけで身体能力が一般人を凌駕することがままある。例に漏れずイノセンスによる補強を受けているらしい神田は、当人の基礎値の高さも手伝って、年齢不相応の戦闘力を彷彿とさせるのだ。付き合いが長いと聞いているため問題はないだろうが、半端なことが嫌いで鍛錬に一切の妥協がない神田を知っているコムイは、思わず眉根を寄せて確認を取る。
「神田くん、ちゃんと手加減してあげた?」
「テメエには関係ねぇだろ」
しかし、神田は取り付く島もない。追求しても頑なになられるだけであることを知っているため、ますます眉尻を下げるコムイに、がくすくすと笑い声をこぼす。
「大丈夫ですよ。ちゃんと限度をわきまえた上での条件付けはしてもらいますし」
「ホント? 怪我とかしてないよね?」
「なんで俺がに怪我させるんだよ」
擦り寄る勢いで確認を重ねるコムイを鬱陶しそうに払いのけ、を背に庇う形で一歩進み出た神田は眉間の皺を追加しながら鋭い眼光を向ける。
遠慮も容赦もなく、ただひたすら「鬱陶しい」と訴える視線の威力は予想以上で、コムイは思わぬダメージについでとばかり、よよと泣き真似をしてわざとらしく肩を落とした。
「酷いよ、神田くん。僕はくんを純粋に心配しているんだよ?」
「だから、それが余計な世話だって言ってるんだ!」
声に滲む不機嫌さは、朝の清涼な空気をものともせず指数関数的に上がっていく。半ばその反応を楽しんでいるコムイと、そんなコムイの思惑をわかっているリーバーは内心でそれぞれ笑みと苦笑を刷く。
表情を隠すことに長けた二人だったが、気配の変化を敏感に察したのだろう。イライラした空気を隠そうともせずばら撒きながら、神田はの手首を掴んで踵を返す。
「行くぞ! もう気は済んだだろ?」
「そうね。お腹も空いたし、汗も流したいし」
困ったような咎めるような視線をちらりとコムイに流し、はおとなしく神田に従って足を動かす。しかし、今にも立ち去ろうとする神田の腕をくんと引き、完全に振り向く前にコムイとリーバーへ振り返る。
それまでの流れと当人の垂れ流す不機嫌な気配からして、その行動には鋭い一瞥か荒げた声あたりが返されると予想していた二人だが、意外にも神田は素直に足を止めてを待つ素振りをみせる。
「じゃあ、失礼しますね」
手を取られながらも優雅にふわりと一礼し、それからは神田を振り仰いでくいくいと腕を揺らす。至極不服そうに睨み返していた神田とどこか楽しげなが一体無言で何を遣り取りしているのかがわからなかったコムイとリーバーは、大袈裟な溜め息と共に一旦地に落とされた蒼黒の双眸に見据えられ、思わず息を呑む。
「……ンなところで油売ってる暇があるんなら、まっとうに朝飯でも食いに行けよ」
そして与えられたのは、予想外もいいところの忠言。その口から飛び出す言葉の大半が事務的な用件か、そうでなければ皮肉と憎まれ口と悪口雑言で構成されている普段の神田からはなかなか聞けない一言に、教団の頭脳ともいえる二人の大人は咄嗟の反応を返し損ねる。
声はどこまでも不機嫌そうだったが、律儀に「じゃあな」と言い残して今度こそ神田はの手を引いて足を踏み出す。その背を追いかけながら首から上だけを振り向かせたのいたずらっぽい笑みが向きを直したところで、ようやく我に返ったコムイとリーバーは、堪えきれない穏やかな笑声をこぼしてしばらくその場で朝の余韻を楽しむことにした。
Fin.