朔夜のうさぎは夢を見る

ただ一つを願い

 闇を負い、闇を纏い。月を背に脇目も振らず彼は走る。何を思うよりもまず、一刻も早く辿り着き、護らねばならないと思ったのだ。


 聞こえるのは、悲鳴と怒号と嘆きの声。そして、それらすべてを覆わんばかりの破滅の音。狂乱の只中に飛び出していくよりも、建物の隅で隠れている方が賢いことはわかっていた。抗う術はない。あれらに見つかり標的とされたが最後、隠れ逃れてやり過ごすしか、生き残る術はないのだ。
 外界と極力接触を絶ち、ひっそり隠れ住んでいてもなお折に触れ目にし、耳にする機のあった悪質なるヒトガタを模す兵器ども。自分たちが何をしたというのだ。お前たちに、自分たちを屠る権利があるとでも思っているのか。そう声を大にして叫び、叶うならば八つ裂きにしてやりたい。けれども、あれらに抗しうる武器はなく、隠れる場所はあっても逃れる道はもう残されていない。
 ひときわ激しくなった轟音に、袖を握る手が震えているのが伝わってくる。ついと見やれば、彼女もまた自分と同じく音源の方角へと顔を向け、眉根を寄せてひたすらに何かを押し殺している。
 彼女は自分と違ってこの村に所縁のない身空だったが、見知った人々が今まさに散っているかもしれない残響に胸がざわめくのだろう。それとも、聞き出したことのない彼女の過去に、何か共鳴するものがあるのか。いずれにせよ、彼は知らないし、あえて知ろうとも思わないことだったが。


 彼の父は、村の外へ出たきり帰ってこなかった。彼の母は、その父を探しに行ったきり帰ってこなかった。そう珍しいことでもない。それはよくある話。ただ、よくあるそれらと違ったのは、続きの部分。そしてその父と母を捜しに村を出て、やはり帰ってこない子供。それに、自分が当てはまらなかっただけのこと。
 父は、帰ってこなかったら死んだものと思い、強く生きろと言っていた。
 母は、帰ってこなかったら死んだものと思い、誠実に生きろと言っていた。
 父も母も、決して捜しにくるなと言っていた。お前はもう一人前なのだから、父がいなくとも、母がいなくとも、己の道を生きることができる。父と母は、互いに決めあった道を行く。だから、お前は己が道を行き、己で父にとっての母のような、母にとっての父のような存在を見出すのだと。
 だから、彼は父のことも母のことも捜しには行かなかった。未だ己が道とやらは見えてこないが、それでも己が力で生きていくことを決めていた。そう決めて目の前を見据えるとき、いつものように半歩後ろに佇む影があることを知っていた。呼吸をするようにそこにある存在がいつまでも手の届くところにあればいいと、その影を護ることができればいいと、願うようになったのはそう遠くない過去のこと。


 常に彼女はそこにいた。隣というには後ろ、背後というには前。半端とも絶妙ともいえる位置で板敷きに膝をつき、彼女は自分の袖を握り締め、必死に震えを押し殺している。その震えの所以を暴こうとは思わない。震えることを理由に縋りついてくるならば振り払ったかもしれないが、たとえば恐怖のせいで震えることを否定する気はないし、それを堪えようという努力を認めないほど酷薄な気持ちにもならない。ただ思うのは、力ない自分の不甲斐なさ。
 力さえ、力さえあるならば、すぐにもこの場を飛び出して、支えあい、共に生きていた人々を救いにいくのに。彼女を護り、彼らを護り、そうして自分の大切なすべてを護れるのに。そうすれば、彼女の震えが少しは納まるだろうに。
 それでも、どれほど願おうと、その両手が握るのは空気のみ。願う力は、与えられていない。
 泣き叫びたいのか、悲鳴を上げたいのか、飛び出していきたいのか。すべてを押し殺し、蒼白になった指先を一層白く硬く握り締めることしかできずにいる彼女。護りたいのに、すべてが無理なら彼女ひとりだけでも護りたいのに、護ることはおろか、盾になることさえ危ういだろう己に、彼は歯噛みすることしかできない。


 神よ、なぜあなたは力を与えてくださらないのか。
 かつてこの地に降り注いだという災禍を祓うため、あなたはその力を人々に与えたというではないか。そのあなたを祭るための社はここにあり、そのあなたを祀って生きてきた人々がここにいる。なのになぜ今、その力を与えてくださらないのか。
 ぎりぎりと軋むほどに奥歯を噛み締め、彼は煮えたぎる激情を押し込める。
 破滅の音が近づいてくる。迂闊に外を覗くわけにもいかないため、いったいどれほどの数の襲撃者がいるのかは、耳で察するしかない。ひとつ、ふたつ、みっつ。数えようとして、あっさりと試みを放棄する。
 それは無駄なこと。なにせ彼には抗う術がない。なればなすべきはより安全な場所へと辿り着き、身を隠し、命を護ること。
 悲鳴と怒号と嘆きの声は、もうほとんど聞こえない。くらりと視界が歪むのを覚え、彼は無理やり頭を振って現実に踏みとどまる。見失うわけにはいかない。何よりも誰よりも彼女の命が重かった。だから彼は選んだのだ。彼らを護るよりも、彼らの許に駆け寄るよりも、彼女ひとりを喪わないことを。だから彼は見失うわけにはいかない。こんなところで迷い、躊躇い、彼女の手を離すわけにはいかない。
 恨め、憎め、呪え。それであなた方の思いが晴れるなら、この身をいくらでも供そうではないか。
 忘れはしないが捕らわれもしない。あなた方の命を選ばなかった己を抱え、あなた方の思いすべてを背負い、その上で彼女を選んで生きる。それこそが償いであり手向けであり贖罪。
 侘びはしないが言い訳もしない。それはあなた方への侮辱であり彼女への侮辱であり、都合のいい甘えに過ぎない。これは自分の決断であり覚悟であり生き様そのもの。
 翻す気はない。覆す気もない。たとえ、行き着く先が無間地獄であろうとも。


 ほんの一時の瞑目と胸中の祈りを捧げ、彼は音もなく立ち上がり彼女の手を引いた。向けられる虚ろな視線に痛ましさを覚えるものの、感傷はすべて無表情の奥へとしまいこむ。
 どうすればいい、と考えるほどに、力があればと悲嘆する。軋む廊下を足早に、目指すは社の最奥、かつて神が人に貸し与えたと伝えられる刀の鎮座まします禁域。
 社に仕える彼女ならともかく、ただ人である彼が立ち入ることは許されていない。だが、ことは急を要する。聖なる力に護られていると聞くその部屋ならば、襲撃を少しはやり過ごせるかもしれない。進む廻廊から行き先を悟ったらしい彼女が躊躇いがちに諌めの声を上げるのを無視して、彼は境界をなす板戸を開け放つ。
 そこは、彼が予想していた以上に神聖さの欠片も感じられない、殺風景な部屋だった。小さくあつらえられた窓から月明かりが射し、簡素な祭壇に静置された一振りの刀を照らし出している。ただ、それだけ。
 足を踏み入れれば、閉ざされた空間特有のかび臭さとひやりとした空気の澱みが感じられた。息苦しさを感じるのは、その刀が本当に神によって与えられたものだからなのか、ただ単に雰囲気に気圧されているだけなのか。ぼんやりと取り留めのないことを考える彼は、外界の一切の音が遮断されていることに気づくこともできなかった。
 蒼白い光に、漆黒の刃が浮かんでいる。
 鍔のない、それは奇妙な刀だった。柄も、刃も、鞘も漆黒。夜闇の色とも墨の色とも違う。本当に純粋な、闇そのものと言えよう混じりけのない黒。彼は、こんな色を見たことがなかった。


 奇妙な静寂の中、彼は胸郭の奥で拍動がだんだん高まっていくのを感じる。
 目の前にある漆黒は、彼がずっと求め続けていたもの。絶対的な、圧倒的な力の権化。魅入られたまま歩み寄り、柄へと指先を伸ばす。ほんの一瞬の逡巡。そして一片の曇りもない決断。
 神の刀は使い手を選び、相応しくないものが手にすればたちどころに神罰が下るという。しかし、刀が彼の手に納まっても、何事も起こらなかった。握りこめばしっくりと手に馴染み、どう振えばいいのか、刀を活かすためにどう振舞えばいいのかが四肢に浸透する。
 知ったのではなく、理解した。そう位置づけられる感触に導かれるまま刀礼を切れば、刃の先端に至るまで、すべてが己の思い描いたとおりの軌跡を描く。
 ――力を求むか。
 無音の世界に響いた声ははじめて聞くものだったが、彼は声の主を知っていた。その声の重さにも怯まなかったし、問いかけにも迷わなかった。
「……よこせ」
 恐れるべきは、伸ばした手が届かなくなること。己の決断に迷うこと。道を見失うこと。厭う対象はすべて、身の内にこそある。
 ――刀を取ることは、人の枠を超えること。
 重ねられるのは覚悟を問う言葉。横一文字に構えた刀を睨み、彼は声を絞る。
「俺は護ると決めたんだ。対価なら払う、お前の力をよこせ!」
 ――なれば刀は、汝を主と認めよう。
 叫び声に返された託宣は、月明かりにも似た蒼白い光と共に柄から刃の先端へと走る。


 唐突に音を取り戻した世界に、板張りの壁が軋み、弾け、柱がへし折られる光景が重ねられる。気づけば傍らで座り込み、呆然と彼を見上げていた彼女に祭壇に残されていた鞘を押し付け、振り返った背に庇う形で彼は刀身を振り抜く。
 部屋の入り口は無残に破壊され、その向こうに続く廻廊も、もはや見る影もなかった。ばらばらと落下する木切れを一閃で振り払えば、醜悪な異形のものどもがぎらぎらと殺気を漲らせて寄ってくる。
 言われたことを理解したわけではない。神の尖兵など、知ったことか。彼にとって大切だったのは、今この場で、求め続けていた力を手にすること。何よりも誰よりもと、一切を切り捨てて選び取った唯一を護る術を手に入れること。
 父と母は、欲張ればすべてを取りこぼし、何もかもを失うことを教えてくれた。これぞと決めた道を往く強さを教えてくれた。ゆえに彼は迷わない。願い、望み、選び取ったのは、この夜が明けてもなお、いつもの場所にいつもの影が佇んでいること。
 往くべしとされたらしい道の先は見えないが、よくわからない対価であるそれを悔やもうとは思わなかった。くっと吊り上げた口の端に浮かぶ笑みは不敵。柄に両手を添え、湧き上がる興奮と流れ込む力の振い方にただ身体を預ける。


 闇を負い、闇を纏い。月を背に立つ漆黒の刃の使い手は、己が定めた道行きへと鋭く踏み込んだ。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。