涼風の歌声
戦いは終局へと近づいていた。残る化け物は二体。腰を落とし、漆黒の閃光が標的へと奔る。
一体目を下段から切り上げ、返す刃で二体目を袈裟懸けに切り捨てる。鮮やかで流麗な、無駄のない所作だった。残心を兼ねた警戒を解き、少年は足を引いて背を正す。それを視界に納め、終わったのかと息を吐いた少女の目は、少年の背後に音もなく降りてきた最後のもう一体を捉えて大きく見開かれた。
気づいた時にはもう遅かった。異変に気づいた神田が振り返るのも、刃を返すのも間に合わない。それは明白。憤怒と後悔と覚悟に彩られた横顔が、弾ける閃光に焼かれて消える。
さらに敵が残っているかもしれないという可能性など忘れ、は慌てて神田の許へと走っていた。瓦礫に足を取られながら、預かった鞘だけを必死に抱きしめてひた走る。光はいつまでも退かず、立ちこめる砂塵と何かの焼け焦げるにおいがさらに感覚を鈍らせる。
決して良くはならない視野に苛立ちながら何とか前進し、光に焼かれながら少女は少年へと手を伸ばす。理屈も根拠も何もない。ただ、これ以上神が宿るといわれる剣を野放しにしていてはいけないと告げる直感に従い、少女は吹き荒れる光の中に腕を差し伸べる。
この世の括りから外れたモノの姿を視、声を聴くことのできる少女は、渦巻く光に孕まれる力を肌で感じていた。清廉にして凄絶。過ぎるほどに白いその存在は、無明の闇を思わせる。
刀は神の力の具現。選ばれしもの以外が振るおうとすれば、たちどころに神罰の下る聖なる呪具。選ばれたのは少年だ。だが、その少年の聞いていた声を共に聞くことができたからには、自分にも何らかの役割があるのだろうと少女は思う。しかし、神なる剣は少女の接近を許さない。
ついに足を止め、押し返されぬよう踏みとどまるだけで精一杯となってしまった少女は、せめてと願って少年を呼ぶ。声を発そうと吸い込む大気さえ力に満ちて喉を焼き、音が言葉にまとまらない。ばくばくと高鳴る拍動は、少女の焦りを反映してさらに加速する。喘鳴に眉をしかめ、は必死に声を振り絞る。
何もかもが空回り、願いは空しく光に焼かれてちりぢりに砕けていく。もう一度、今度こそ。そう願って震える足に力を篭めたは、そっと肩を支える腕の感触を知り、息を詰めて背後を振り返った。
「ああ、これは酷い」
あちこちに細かな傷を作っているとは対照的に、腕の持ち主は光の嵐に何も感じていない様子だった。光源を見つめる静かな双眸はあくまで穏やかだが、ついと寄せられた柳眉が状況を憂えている。
「慣れない身で無理をしたのだね。ここまで力を引き出せたことを褒めるべきか、身の程知らずの無茶をしたと責めるべきか」
ふうと長く息を吐き、その人影はゆったりと少女を見下ろす。
「離れておいで。適合者ではないお前にとって、暴走するイノセンスの気は毒にしかならない」
紡がれる単語は、にとってまるで理解の出来ないものばかり。それでも、そっと肩を抱えて光源から離そうとする動きは明確であり、は慌ててそれに抗う。
「大丈夫、私はお前たちに害をなしたりはしない。今ならあの子供の命を繋ぐことができる。だから、お前は離れておいで」
あやすように告げられた言葉は、少女の動きを止めるのに十分すぎる効力を持っていた。唖然と見上げる双眸にゆるりと微笑み返し、影は繰り返す。
「お前はあの子供を助けたかったのだろう? 荒療治にはなるが、私ならば助けられる」
信頼を寄せるには謎が多すぎたが、藁にも縋りたいにとって、その言葉は天啓にも等しかった。指示に従うには膝が笑ってしまっていてうまく動けなかったが、影の動きを邪魔する意思がないことを、その場に座り込むことで示す。
ほとんど崩れ落ちるようにしてしゃがみこんだ少女を不思議そうに見やった影は、しばらく考えてから「ああ」と頷く。
「動くのも辛いのか。気づかなくて悪かった」
すぐに終わらせるからね。ふわりと笑んでの頭を軽く叩くと、影は光源たる刀を握り締めたまま地に伏している神田の許へと歩み寄る。
「禁術にあたるのだけど、これしか方法がない。許せとは言わないよ」
ぽつりと落とされた言葉は切れ切れに。そして、続く呪言は朗々と響く音律としての耳に届く。あまりの眩さに直視することは適わず、眇めた瞳でしゃがみこむ影の背中を見つめながら、少女はただ少年の無事を祈る。
呪言が紡がれるごとに、光が拡散し、消えていく。その光の一部が自分と自分の抱く鞘とに溶け込んでいくごとに、身の裡から言の葉が浮かんでくる。意味するところまでは理解が及ばないが、それが力を持つ言葉であることをなぜかは知っていた。導かれるように、浮かされるように、少女は低くその音をなぞる。
なめらかに歌うように編み上げられる影の呪言に比べれば、拙くたどたどしい、児戯のような祝詞。それでも神のためにと編まれた言霊は意味をもって響き、力となって大気に溶ける。焦点を失った虚ろな瞳を刀に据え、唇を細かに震わせる少女を振り返り、最後の一説を唱え終えた影はきゅっと眉根を寄せる。
「……お前たち、鞘と刃だったのか」
呻くように呟かれた言葉は、少女の紡ぐ声に呑まれてあっという間に掻き消された。拡散する力のいくばくかは少年の命と刀に宿る神を繋ぐために押し込んだが、残る力は少年が消耗しきって完全に意識を昏倒させるか、あるいは目を覚まして抑えるかしない限り溢れ続けるはずだった。だというのに、何たることか。少女の祝詞は力を取り込み、ゆるゆると、しかし着実に、力の暴走を鎮めつつある。
神の結晶は奇怪を招く。それゆえ、関わり続ける以上“ありえない”ことこそありえないとは知っていた。だが、これはあまり“ありえてほしくない”現実だった。疼く感傷に影がしばらくの瞑目を挟んで目を開ければ、いつの間にか氾濫していた光はすっかり収まり、しんと静かな夜闇が世界を満たしている。
「これもまた神の結晶が導きし宿命というならば、なんと因果なことなのか」
しじまに滲む声は深く静謐。疲れと諦めと憐憫を篭め、影は子供たちの星宿を嘆く。それでも、嘆いたところで何も変わらないことを、他ならぬ影こそはよく知っていた。すっかり沈黙し、光を失って闇色に染みながらも決して夜闇に融けることのない刀身を見やり、影はゆるりと首を振る。
「お前たちを導けるほどの器が私にあるとは思わないけれど、こうして関わりを持ったのもまた宿命だろう」
精根尽きて倒れ伏す少女がそれでも大事に抱え込んでいた鞘を取り上げ、硬く柄を握り締める少年の指を一本ずつ解き。影は、ごく丁寧に刀を鞘へと納める。
膝をついて覗き込めば、双方共にあどけなさの抜け切らない顔立ち。過酷な戦乱に巻き込むに、良心の呵責を覚えずにいられない幼い子供たち。しかしながら影は、せっかく出逢うことのできた希望の切れ端を手放す気などなかった。
「酷なことを願う私を、恨んでくれて構わない。だがどうか、この争いを終わらせるための力となっておくれ。せめて今は、お前たちを守る盾となろう。望むなら力の振るい方を教えよう。生き延びる術を教えよう」
自己満足に過ぎない釈明の言葉を紡ぎつつ、影は願いと祈りと贖罪の意思を添えて優しく子供たちを抱き上げて、倒壊を免れた建物の一角へと足を向ける。
「だから生きておくれ。破壊し、喪うことしかできない私が拾うことのできた、はじめての命たち」
冷たく肌を撫でる夜風に対し、腕に抱きこんだ子供たちはあまりにも温かい。影は護るように腕に力を篭め、久方ぶりに抱いた骸以外の身体を強く胸に抱きしめた。
Fin.