朔夜のうさぎは夢を見る

咲く花の祈り

 エクソシストという役職についている限り、基本的に暇だの猶予だのという言葉とは縁がない。絶対的な人員不足は、すなわち一人に対する仕事量の絶対的増加をもたらすものだ。
 しかし、だからといって休みなく働けばいいというものでもなく、戦闘がメインとなるエクソシストは、たとえ無傷でも任務の合間にある程度以上の休息を取る時間も与えられる。それに、世の中に数多と存在する怪奇とはいえ、片っ端から出向くわけでもない。下調べや裏づけが終わっていない怪奇が溜まれば、その分エクソシストたちは思いもかけない時間的ゆとりに遭遇することになるのである。
 いくつかの任務を連続で終えれば、本部でのしばしの休息期間が待っている。スーマンが、小腹が空いたなどという平和な理由で食堂をふらりと訪ねる気になったのも、彼がたまたまそういった時期に当てはまっていたことに起因する。
 昼食もピークを過ぎ、夕食を取るにはあまりに早すぎる。そんな半端な時間だからか、食堂内は閑散としており、それぞれの仕事の合間を縫って栄養摂取に訪れているらしい白衣姿がちらほらと見受けられるだけだった。かけられる簡単な挨拶に礼儀正しく返してからカウンターを覗けば、そこには団員たちの食事を一手に担う偉大な料理人と、なぜか科学班の新米雑用係の姿があった。


 和やかに会話を交わしながら、調理の主導権を握っているのはどうやら厨房の主ではないらしい。珍しい光景を見たとばかりに声もかけず傍観の立場を貫くものの、気配に敏いらしい少女がふいと振り向いて笑みをみせることで、その静かな観察会はあっという間に終わりを告げた。
「ひょっとして、取り込み中か?」
 別段、どうしても食事をしたかったわけではない。茶やコーヒーの類はセルフサービスで淹れられるようセットが用意してあるし、エクソシストに与えられている居室には簡単な給湯施設もついている。
「そんなことありませんよ」
「そーよ、邪魔しないでもらえるかしら?」
 いかにも通りがかっただけです、といった表情を取り繕って問いかければ、肯定と否定が同時に返された。思わず苦笑を浮かべてから、スーマンはカウンターに肘をついて厨房を覗き込む。
「料理教室でも開いてるのか?」
ちゃんからニホン料理を習っているのよ。羨ましい?」
「ジェリーが料理を学んでいるのか?」
 笑い混じりの質問に素直な驚嘆と質問を返せば、弾けるような笑い声の合唱が返される。笑いあう二人の料理人があまりに楽しそうで、つられるようにして一緒に笑ってから、スーマンは改めて見学の許可を取り付け、カウンター越しに珍しいことこの上ない料理教室をしげしげと眺めやることにした。


 生活に支障はない、しかしいまだたどたどしさが残るの英語でも、身振り手振りと実践を加えることで、料理長に言いたいことをふんだんに伝えられるらしい。時折うまく表現が見つからなくて詰まった様子もみせるが、調理は順調に進んでいく。使える限りすべての手段を駆使した説明に蹴りがついたのか、鍋の蓋をしたところで、少女は改めてカウンターへと向き直った。
「つき合わせちゃってごめんなさい」
「いや、貴重な場面を見せてもらっている」
 申し訳なさそうな笑みを添えて謝罪され、スーマンは気にするなと首を振る。そもそも、時間が空いていれば新しい仲間の様子を見てやってほしい、と、スーマンは他のエクソシスト同様、室長から直接頼まれている。後続の育成は先達の義務だと感じているし、何より、幼くして戦場に立たざるを得ない子供たちを見守るのは、大人として彼らに対してできるせめてもの罪滅ぼしのようなものだ。この程度の付き合いは苦にもならないし、実際、少女が手際よく調理を進めるのを観察しているのは心地好い時間だった。
「面白いですか?」
「面白いというより、なんともいえず懐かしい」
 しかし、返答が意外だったのか、はきょとんと瞬いてから小首を傾げて問い返す。声には出されなかったが、スーマンが料理に興味を持っているのかと疑問に思っているのは明白。それを正確に察し、苦笑を交えてスーマンが素直な感想を述べれば、少しだけ困ったような笑みを添えてカタカタと鳴り出した鍋の蓋へとは視線を流す。
「父親になった気分だな」
「じゃあ、最後の仕上げまで張り切っちゃいます」
 仄かに滲んだ痛ましさを見逃すことができず、スーマンは慎重に言葉を選びながら話題の転換を図る。ちらりと視線を流して眉根を寄せ、はスーマンの気遣いをきちんと受け取って、おどけた口調で当たり障りのない言葉を投げ返した。


 そばとそばつゆと天ぷらを既に覚えたジェリーに、今回が教えているのはおかゆとおじや、それから和風の味付けの基本だった。実際に作ってみせているのはおじやであるらしい。もっとも、料理名を聞いたところでぴんとくるわけもなく、スーマンは出来上がりをまるで想像できないまま、の手元をぼんやりと眺めているに過ぎない。
「洋食を常に食べている皆さんには味が薄すぎるくらいだと思いますけど、私たちには、洋食は味付けが濃いんです」
 隙間から湯気を吐き出しはじめたことを確認し、火を弱めて蓋を取った鍋の中に、は丁寧に溶き卵を流し入れる。そして再び蓋をして、しばらく蒸してから開ければふわりと立ち昇る湯気。ぽつぽつとついでのように言葉を継ぎ、鍋の中身を小皿に盛り付けたは、味見をしてみてほしいと二人に差し出した。
 出来上がったばかりの料理はもちろん熱い。息を吐きかけて冷ましてから口に含み、二人はそれぞれ小首を傾げる。
「オレには味がほとんど感じられないな」
「でも、ほんのりやさしい味ねぇ。やわらかいし、胃にもよさそう」
「確かに、嫌いな感じじゃない」
 あらかじめの予告通り、スーマンとジェリーにとって、の作ったおじやは味が非常に薄かったらしい。それでも肯定的な感想をあたたかな笑みを浮かべて紡ぐやさしさにそっと微笑み、は説明を足した。
「おかゆもおじやも、病人食として代表的です」
 疲れているときや、胃もたれのときにも良いんですよ、と笑うはそのたたずまいさえほんのりしていて、彼らの手元の小皿の味付けを思わせる。


 小皿に盛られていたおじやはあっという間に胃に収まり、代わりに礼の言葉を乗せた皿がの手元へと戻る。それをてきぱきと流しで洗いはじめた横顔に、スーマンはふと思いついて口を開いた。
「そばは神田の好物で、良く食べるから真っ先に教えたのはわかる。だが、どうして次が病人食なんだ?」
 ふと思いついたにしては中々核心的な問いなのではないかと考えながら答えを待てば、きゅっと音を立てて蛇口をひねり、過ぎるほど丁寧にふきんで皿を拭きながらは目尻を下げる。
「ユウはきっと、エクソシストとして戦うようになったら、たくさん無茶をすると思うんです」
 だから、ジェリーさんに早く覚えてもらいたいな、と思って。言葉を紡ぎながら浮かべられた今度の笑みは、先までに比べて少しだけ哀しそうだった。哀しそうで、寂しそうで、何かを堪える声音と表情。まるで、遠くない未来に別れを予感しているような儚さと硬さ。
 微妙なラインだということはわかっていたが、触れてはいけない領域に踏み込んでしまったのかもしれない。の表情から己の問いをそう位置づけたスーマンが少しだけ眉間に皺を寄せるのと、ジェリーが明るくおどけた調子でを抱き寄せるのはほぼ同時だった。
「まーっ、心配性なのね! でも、その気持ちは良くわかるわ。大丈夫、任せておいて。すぐにマスターしてみせるから」
 ジェリーは言葉遣いと内面こそ非常に女性らしいが、体格は意外にがっしりしており、何よりれっきとした成人男性である。その彼に力いっぱい抱きすくめられたは、唐突だったことも手伝ってか、目を白黒させて腕の中でもがくことしかできずにいる。
「だからその時は、アンタは隣で看病して、心配させるなって泣いて詰っておやりなさい」
 続けられた明るい声は、けれどどこまでも深くて、ジェリーの気遣いを悟ったスーマンもまた調子を合わせておどけた声を上げる。
「なら、オレは娘を泣かせた不届きものを叱り飛ばしてやるとするか」
 言ってジェリーの腕の中のに微笑んで、三人で笑った中に見えたのは、の泣きそうに歪んだ瞳。


 スーマンに表情の歪みを気づかれたことに気づいたのか、困ったように眉尻を下げて「内緒」と声に出さずは呟いた。唇の動きをきちんと読み取り、目を細めて人差し指を唇に当て、やはり声に出さずに「二人の秘密だな」と応じて、スーマンは複雑ながらも一層強い笑みをに向ける。
 気づかれたくないだろう表情を察し、その奥に秘められた思いを読み取ってしまうのは、なんだかんだいっても父親として娘を見守っていた経験があるからだろう。既に身に染み付いてしまった勘はそう簡単に拭い去ることもできず、こうして意図せずして幼い仲間を傷つけている。
 本当に、本当に因果なものだ。神に選ばれたと、そんなひと言でどうして親の庇護を受けるべき子供たちが戦場に追い立てられる。どうしてこんなにも倦みきった表情を浮かべている。腹の底から沸き起こるやり場のない怒りを、スーマンは黙って飲み下す。
「なあ、。それ、よければオレにくれないか? 小腹が減っていてな」
 ようやくジェリーの抱擁から解放され、どういう表情を浮かべようかと困惑の色を刷く少女に、スーマンは穏やかに笑んで鍋を指差した。
「あら、ちょうどいいじゃない。アタシはそろそろ夕食の仕込みに入るから、後はこのままでいいわよ」
「そうですか? じゃあ、お言葉に甘えちゃいます」
 レシピを書き込んでいたのだろうメモを確認していたジェリーにも薦められ、はぺこりと会釈を送ってからスーマンへと改めて向き直った。
「夕食に障るといけないから、私と半分こでいいですか?」
「もちろん」
 微笑むの表情はいつも通りであり、そこに彼女の決意を読み取ったスーマンは、ならば自分も忘れようと決める。先ほど互いに秘密と約したあの瞳は、忘れよう。少なくとも、忘れたふりを貫こう。
 切ない決断を胸に秘めて、傷ついた瞳を見合わせて。カウンター越しに差し出された小ぶりの椀の乗ったトレーを受け取り、調理場から出てきたと共に、スーマンは談笑しながら窓際の座席へと移動した。

Fin.

back to D-Gray man menu
http://crescent.mistymoon.michikusa.jp/
いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。